余遊人碩翁の「つぶやき余暇」

毎月4日はよっかネタ配信日!

日本余暇会ロゴ.jpg本ページは、毎月4のつく日(4日・14日・24日)に、余暇にまつわるためになるお話を配信するページです。

#03 余暇があなたの人生を決めた!?(2021年11月24日)

あなたは彼または彼女とデートしたことがあるだろう。
それをきっかけにしてあなた方は恋に落ち、
ついに結婚まで進んだ…そして今、幸せに生きている、
となるとそのデートがあなたの人生を決めたことになる。

ところで、デートと言うのは、ただ、日時を合わせることではない。
デートの土台は余暇にある―自由な時間があるからこそデートが出来るのだ。
二人に自由な余暇があり、たまたま日程の面でもうまく一致した時にデートは成立する。
デートは余暇を共にする「共余暇」の営みであり、
そこから人生の新たな局面がスタートする魔法の時間である。

【解説】
 「デート」という言葉は、もとはと言えば「日付」だが、出会いの意味でこの語を使うときは、ただの日付ではなくて「特別の日付」、マークの付いた日時である。そしてそれは当然、束縛されていない自由な時間でなければならない。つまりは「デート=余暇」ということになる。

 余暇がなければデートのしようがない。忙しく仕事に追われていては、デートもロクにできないのは当然だ。日曜日が社会全体に休みであるのは、この日が誰とでもデートのできる日として保障されていることを意味している。もっともキリスト教社会では、本来、日曜日はデートと言っても神さまとのデートであり、教会に詣でて神との対話を試みるはずの日であった。人間同士のデートには土曜日が一番うってつけだと思われる。

 今、世界中で土曜日も休日であるのは常識で、先進国であろうが途上国であろうが、土曜日に働いている人は例外的だ。ところがわが日本では、土曜日が毎週休みというのは全勤労者の6割しかいない。ということは、私が休みでも、お相手が休みでない確率が半分近くあるということになる。それなら平日の夜にデートしなさいだって? これがまた定時に帰れる人は少数派で、皆さん残業に勤しんで、帰る時間がまちまちだ。これでは落ちついてデートは出来ない、待ちぼうけを食わされることも多い。こんな状況では恋人探しも難航するはずで、結婚年齢が年々高くなり、生まれる子どもの数がどんどん少なくなるのは、余暇貧乏で、デートの機会が少ないことが大きな原因だと言っていい。少子化を押しとどめたいなら、政府はすべからく余暇の拡大に努めることだ。

 余暇の価値は、「自由な選択」を可能にするところにある。余暇は私たち決まりきった生活から抜け出す新たなチャンスを与えてくれる。自由な時間だからこそ、人と人との自由な結びつきが可能になる。余暇をたくさん持つ人は、さまざまな人との出会いの機会をたくさん持つということになる。そこから新たな人生が開ける可能性は大きい。

執筆:余遊人碩翁


#02 余暇と遊びはどう違う?(2021年11月14日)

余暇ってつまりは遊びでしょ。
どちらも自由で楽しい体験ということ。
でも、余暇と言ったり遊びと言ったり
どうして2つの言葉があるんだろう
どこに違いがあるのだろう。

遊びと言えば子どものすること、
働く大人は遊んじゃおられんから余暇なのかな。
あるいは余暇は余暇時間、そこで行われるのが遊び活動、
つまりは余暇が容れ物で、盛られた中身が遊びなんだ。
余暇と遊びはワンセット、すてきなカップルというべきか。

【解説】
 この問題を考えるためには、「外延」と「内包」という一組の概念と使うとわかりやすい。哲学の用語としては、内包(intension)が、ある概念が持っている共通の性格を指すのに対し、外延(extension)は、その概念に含まれるものにはどんなものがあるかを示す役割をもっている。例えば「猫」という概念の内包は、ニャーニャー鳴いてネズミを追いかける毛におおわれた生き物ということだし、猫の外延は、三毛猫から黒猫からヤマネコ、どら猫、ペルシャ猫…という猫族の広がりを意味している。1つの概念は「内包」としての独自の意味を持ちつつ、その適用範囲を「外延」として定めていると言ってもいい。

 この論理をそのまま適応すると、実のところ「余暇」にも「遊び」にも内包もあれば外延もあることになる。だが、ここではちょっと使い方を変えて、余暇と遊びの核心にある、いちばん大切な要素―それは自由とか快楽とかいうもので人間がいきいき生きて行く上で不可欠の価値―を踏まえて、余暇がその外延を示し、遊びがその内包を具体的に表していると考えてみよう。

 あっさり言えば、余暇というお皿に遊びという果物を盛るというイメージで考えてもらえるといい。小さなお皿にはキンカンやサクランボぐらいしか載せられないが、お皿が大きければ、リンゴでもミカンでも果てはバナナでもメロンでもさまざまな果物を盛ることができる。外延が広がれば内包も豊かになる道理である。

 この比喩で主張したいのは、われわれ日本人の余暇という入れ物の小ささである。働く人の余暇時間は先進国で最少、子どもたちだって、大人たちの働き主義の影響をモロに受けて、自由な時間を制限されて、宿題だの塾だの部活だの(部活って自由じゃないよね)に追い立てられている。その分、余暇に盛られるべき遊びは貧弱になり、部屋の片隅でスマホをいじって気晴らしをするぐらいしかできていない。 豊かな遊びのためにもっと余暇を!というのが日本余暇会の主張である。

執筆:余遊人碩翁


#01「余暇」って何だ?(2021年11月4日)

余暇とは「余った暇」と思われがち。
確かにそうだが、問題は「余り」の意味。
多くの人は、「余り=余計」と思っている。
つまり、余って要らない暇。
価値のないものだと思っている。

しかし、そうではない!
この「余」は「余裕」の余。
時間のゆとりであり、
豊かさを表す価値ある「余」である。

余暇は「余った暇」ではなく、
「余裕の暇」と考えよう!

【解説】
 われわれ日本人は「余暇」を大事にしていない。余暇は仕事が忙しくないときに、たまたま空いてしまった余計な時間、あれば儲けものだが、なければないで仕方がない、ぐらいにしか思っていない。言い換えると、余暇ははじめから目標にはされていない。仕事の動向によってたまたま得られる「結果論」としての「余り物」に過ぎないのだ。

 しかし、よく考えてみてほしい。そもそも仕事は何のためにするのか。仕事によって暮らしを支え、余裕をもって、ゆとりある生活を楽しむために働くのではないのか。働く先にある、ゆったりした余裕の時間を獲得することが働くことの意味ではないのか。仕事のために余暇があるのではなく、余暇のために仕事があるのだ。目標としての余暇=余裕の余暇こそが私たちが求めるべき本当の余暇の姿だ。

 かつて、暮らし全体が貧しく、長時間労働が当たり前だったころは、余暇なんてほとんど取れなかった。少しでも余暇という隙間があれば、身体を休めて疲れをとるための時間だった。欧米では19世紀後半になって、労働時間を短縮して1日8時間に制限し、睡眠や食事に8時間を使い、あとの8時間は、生活をエンジョイする自由な時間=余暇とするという価値観が定着していった。1919年にILO(国際労働機関)が設立されて、その第1号条約が1日8時間制を定めて以来、余暇は生活の大切な目標になっていった。欧米では週休2日制が広がり、長期のバカンスも定着していく。目標としての「余裕の余暇」が生活に根付いていくのだ。

 残念ながらわが日本は、余暇の量も余暇の質もたいへん乏しい。余暇は相変わらず余計者で、余暇を返上して残業も厭わず、過労で死んだり、鬱になって自殺する勤労者が後を絶たない。そろそろ発想を変えよう。余暇を余計者から救い出し、脇役ではなくて主役に据えた「新しい生活様式」を作り出そう。コロナ禍が私たちの働き方に大きな疑問を突き付けてくれた。いまこそ余暇を「余った暇」から「余らせて有効に使う暇」へ転換させるべき時である。

執筆:余遊人碩翁