余遊人碩翁の「つぶやき余暇」
毎月4日はよっかネタ配信日!
#36 まじめなレジャー(2022年10月24日)
【つぶやき】
レジャーと言えば一般には気楽で肩の凝らないものと相場が決まっている。
だからこそ一時の気晴らしになり、元気も取り戻せる。
くそまじめなレジャーなんか面白くもない…
ところが世の中には、まじめに真剣にレジャーに取り組む人たちもいる。
自分の趣味に打ち込んで、時間もお金もたっぷり使い、
そこに生きがいを感じている人だっているのだ。
そうしたまじめなレジャー=シリアス・レジャーこそが
新しいライフスタイルを作っていくのだという。
【解説】
昨今の欧米の余暇研究というと「シリアス・レジャー」というのが重視されているという。この用語はもともとカナダの余暇社会学者ロバート・ステビンスが言い出して広がったものである。「シリアス・レジャー」は日常の「カジュアル・レジャー」に対比されて使われていて、カジュアルの方はそれこそ日常のちょっとした隙間時間に気晴らしをしたり、あるいは休日に遊園地に行ったり小旅行に出向いたりする気軽に楽しむ余暇である。これに対してシリアス・レジャーは本気で真剣に、まじめにひたむきに取り組むレジャーである。
シリアス・レジャーにはどんなものがあるか。ステビンスは大きく3つのジャンルを上げている。①アマチュア、②ホビー、③ボランティアである。いずれもカジュアル・レジャー にはない専門性を持ち、独自のスキルが磨かれて継続的に行われる。深い知識や高度なスキルを必要とせず、場当たり的に行われるカジュアル・レジャーとは、そこに違いがある。
アマチュアは愛好者ということで、どんな領域にも存在し、中にはプロ顔負けの技量を持つ人もいる。昔からアマチュア無線の愛好者というのがいて、短波放送で世界中と交信し、独自の民間外交を担っていた。スポーツにしてもアマチュアが本来で、それを仕事にするプロ選手よりも高い評価を受けていたものだ。かつてのオリンピックはアマチュアの祭典で、スポーツで稼ぐプロ選手は出場資格がなかった。プロを認め、商業主義を導入したオリンピックが巨大化し、興行化し、金まみれのイベントになってしまったのは、アマチュアイズムを否定したからに他ならない。
ホビーの世界も奥が深い。もちろん、気軽でカジュアルな趣味もたくさんあるが、それが高じてマニア化し、独自の世界を切り開いている趣味人がいる。切手収集は「王者の趣味にして趣味の王者」と言われたものだが、この道にハマったコレクターには、博物館や資料館にもないような貴重な切手を集めている人がいる。趣味の園芸、音楽趣味、日曜画家、鉄道ファン(乗り鉄と撮り鉄)などなど、様々なジャンルにそれぞれの趣味人がいる。その打ち込みようは半端なものではなく、金と時間を惜しまず、全エネルギーを趣味に賭けて趣味を生きる目標にしている人もすくなくない。
ボランティアも重要な存在である。余った時間にちょっとボランティアという段階から入る人が多いが、やがてその面白さや社会的意義の重要性に感じて、グループを作りネットワークを組んで、社会問題の解決に取り組んでいる人も数多い。子どもの貧困が話題になり、それを少しでも改善しようとして全国に「子ども食堂」が生まれているが、それらのほとんどは多くのボランティアに支えられて運営されている。
こうしてみると「シリアス・レジャー」は、個々人の生活の質を高め、社会をより良いものにし、その文化度を高めていくために欠かせない活動と言ってもいい。現実の世界を維持するために仕事と労働が必須であるのはもちろんだが、「人はパンのみにて生きるにあらず」という側面も忘れることはできない。人が人らしく、言葉を換えれば「文化」を育んでいくためには、現実世界を押し包んでひろがる余暇の世界、中でも「まじめな余暇」の充実は大きな課題と言ってよい。いささか衰退気味のこの国の明日を考えるためにも、日本的シリアス・レジャーの動向に注目する必要がある。
*日本で初めてのシリアス・レジャーの研究書として、宮入恭平・杉山昂平編『「趣味に生きる」の文化論―シリアスレジャーから考える』ナカニシヤ出版 2021年 がある。
筆者(薗田碩哉)も執筆に加わっている。
#35 青空と余暇の雲(2022年10月14日)
【つぶやき】
猛暑の夏が過ぎ去って、爽やかな秋がやってくる
天気のいい日にぼんやり空を眺める
透き通った青い空がどこまでも広がり
その中にぽかりぽかりと雲が浮いている
雲というのは空の中の何なのか
そんなことを考えてふと思いついた
雲というのは空の中の「余暇」なんだ
あってもなくてもいいような、でも、なくてはならないものでもある
空が空だけだったらやっぱり物足りない
真っ白で柔らかそうで楽し気な雲が空を空たらしめている
生活も同じことだ、仕事一色では息が詰まる
雲のような余暇が生活を生きるに値するものにしてくれる
【解説】
余暇といういささか頼りないものをテーマにものを考え、余暇を真ん中に置いた事業をあれこれ画策して生きてきた。もう半世紀以上も昔の経済の高度成長期から、オイルショックを経て強くなった日本経済が世界中を買い占めるほどの勢いを示した時期を経て、バブルが崩壊し、失われた10年、20年が経過し、平成の30年が過ぎるころには、老大国日本は、中国や韓国の後塵を拝するところまで後退している。まことに栄枯盛衰は世の習いである。
しかし、余暇というものに注目してみると、余暇はいつの時代にもあったし、その時代ごとに、それなりの役割を果たしても来ている。その昔の高度成長をけん引した1つの動因として「レジャー・ブーム」という現象があった。景気が良くなって仕事が増え、所得も倍増するという「いけいけどんどん」の時代には、ボウリングだのスキーだの、あるいは愛車を駆ってドライブだの、お金のかかるレジャーに若者たちが夢中になり、それが経済を活性化する一因ともなったのだ。その後の経済大国ニッポンを誇った時期には、リゾート開発が列島中を駆け巡り、全国いたるところにゴルフ場ができ、海岸に作られたマリーナには自家用ヨットが整列したものだ。海外旅行も盛んになって、世界のあらゆる国々を旅するための「地球の歩きかた」のガイドブックが書店の棚にならんでいた。
平成不況と言われた今世紀の20年になると、経済は成長どころか停滞、果てはじりじりと後退を始めているが、余暇が消え去ったわけではない。それどころか失業という形の余暇―それは決して望ましいものではないが―着実に拡大してホームレスという「余暇人」が街をさまよう風景も当たり前のようになっている。世界でもトップクラスの長寿国となったこの国は、リタイアした膨大な高齢者を抱え、毎日が日曜日という何千万もの人々が余暇の使い方に思い煩う今日このごろである。
余暇は時代の変遷とともに、様々な形をとりながらも、常に私たちの暮らしの根幹に関わってさまざまな作用を続けている。それはちょうど大空という舞台に、日々さまざまな雲が現れて、天の気を変化させ、自然界を動かしているのと同じように感じられる。雲には穏やかで美しいものもあれば、夏の日差しの下で巨大にせりあがって激しい夕立を見舞うものもあり、空全体を真っ黒に覆いつくして、世界を沈鬱な表情に変えてしまうのもある。同様に余暇にも、しばしの休息の時となって心を癒してくれる白雲のような余暇もあれば、多くの余暇が結集して巨大な力になり、世の中を動揺させる入道雲のような「ブーム」型の余暇も現れる。麻薬や暴力や快楽殺人のような反社会的な余暇行動も生まれてくる。
余暇という雲を構成する主成分は「自由」という粒子である。この粒子はささやかに見えて大きなエネルギーを秘めている。それを引き出し、組み合わせ、これまでになかったような余暇力を組織して、もっと平和で美しい世界を構築することはできないものだろうか。秋の雲をぼんやりと眺めながら、余暇の行く末に思いをいたすのも悪くない余暇の使い方だろう。
#34 余暇の読書案内(2022年10月4日)
【つぶやき】
10月は読書の秋もたけなわ、秋の夜長に本を読みましょう
...というわけでこのコラムに相応しい余暇の本を紹介させていただこう。
といっても「余暇の過ごし方」とか、旅のガイドブックとか、
もろもろの余暇に取り組むための実用書ではなく、
「余暇とはいったい何だろう?」ということを考えるための本である、
ヨゼフ・ピーパーというドイツの哲学者が1965年に書いた『余暇と祝祭』
文庫本で100ページ少しの小さな本だが、
これこそ究極の余暇の本なのだ。
【解説】
本を読むという行為も余暇の一つのメニューである。学者をもって任じる先生方は本を読むのは仕事かもしれないが、フツーの市民にとって本は余暇の良きパートナーである。本はどこにでも持っていけるし、どんな時間でも(例えばベッドの中でも電車に乗っていてもトイレの便器に座っていても)開くことができ、読む人にとって楽しい本ならたちまちその時間と空間を余暇と遊びの気分に染め上げてくれる。気に入った本に出合えるなら良質のレクリエーションが体験できる。
本はレクリエーションのためだけにあるのではない。必要な情報を得るためにも本は読まれる。研究でもビジネスでも遊びでも、本には多種多様なインフォーションが含まれている。どこの仕事場へいってもさまざまな参考書が積み上げられていて、情報なしには仕事も進まない。このスタイルの読書は仕事にかかわることが多いわけだが、遊びのインフォメーション本(グルメ本や旅行案内)もある。旅の本などは読んでいるとその土地に行ったような気分になって、それを読むこと自体がレクリエーションになることもある。
レクリエーションとインフォメーション、それに加えてもう一つ別種の読書がある。それはインスピレーションとしての読書である。つまり、読むことでこれまで考えてもいなかったようなことを深く考えさせられたり、悩み苦しんでいたことについて一すじの光明が見つかったりする。新しい思想をインスパイア(吹き込む)されたり、ひらめきや刺激を与えてくれるような第3の読書がある―読者も時にはそんな経験をしたことがおありだろう。そして余暇についてのインスピレーションを与えてくれる本で、まず挙げなければならないのが、ヨゼフ・ピーパーの『余暇と祝祭』である。(稲垣良典訳、講談社学術文庫)
ピーパーによれば「余暇」とは、労働と全く対照的な1つの精神的態度を示す言葉だというのだ。労働が活動的で労苦と努力を伴い、社会と深くつながる行為であるのに対して、余暇は「非・活動」「内面的なゆとり」「休息」「委ねること」「沈黙」の態度を表していると彼は主張する。余暇の中にも―特に「レジャー」という用語のイメージでは、活動的で外面的で忙しく、自己主張の強い「おしゃべりな」余暇が浮かんでくるが、ピーパー先生は、そういうのは精神的な態度としてはむしろ労働に近い活動であって、余暇の余暇らしいところはもっと「閑(しず)かな」境地を獲得するところにあると言われている。究極の余暇は「沈黙」にあるのだ、と。
ピーパーは言う。「余暇とは、物事の真実に耳を傾けるためにはどうしても必要な、あの沈黙のひとつのかたちといえます。」―沈黙こそ余暇の究極の姿であり、その沈黙の中で人は「存在するものに対して自らを開き、受け入れ、耳を傾ける」ことができる。このような余暇の中でこそ、人は世界の真実に迫る直観を得ることができるのだ、と。沈黙の余暇―ピーパーの用語で言うと「コンテンプラチオ」(瞑想/黙想)こそが余暇のもっとも余暇的なあり方だということになる。
キリスト教会での祈りにしても、禅寺での座禅にしても、既存の宗教とは関係ない瞑想にしても、人が自分の内面世界を深く掘り下げようとすれば「沈黙の余暇」に身をゆだねるしかない。そういうひと時をわずかでも日常生活の中に持つことは、精神衛生の面からも大事なことではないかと思う。「忙しい」ことを有能のしるしのように受け止めるのは浅はかである。中身がないとじっとしてはいられない。空っぽの袋は立っていることができない。仕事で忙しいのはまだ許せるとして、余暇まで忙しくしている現代人は、沈黙の、瞑想の、礼拝の時としての「余暇」をもっと大事にしてもよさそうだ。
#33 遠慮なく休もう(2022年9月24日)
【つぶやき】
職場から休暇をもらうとき、上司や同僚に対して
「申し訳ありません、休ませていただきます」と恐る恐る申し出て、
何度も頭を下げてやっと認めてもらうというのが日本の職場の日常風景だ。
間違っても「俺は休むぞ」なんて堂々と言ってはいけない。
家族の不幸が出来(しゅったい)して、急に予定の仕事を放り出して休みを取るならともかく、
決められた有給休暇を取るのでさえ、周りを気にして平身低頭...
これってやっぱりおかしくないだろうか。
定められた有給休暇は働く者の当然の権利なのだ。
大手を振って、遠慮なく休もうではないか。
【解説】
労働法の規定では、働く者の権利として休んでも給料を差っ引かれない「有給休暇」が定めれている。新入社員でも入社して半年後になれば、またその期間、全労働日の8割以上出勤していれば、10日の有給休暇が与えられることになっている。しかし、新米が半年働けたからと言ってその年に10日の有休を堂々と取れるような職場はそんなに多くないだろう。
もちろん法が定めているのだから、要求すれば休めるはずだが、「ロクに仕事もできないのに生意気な」という周囲の冷たい視線を浴び、嫌味を言われるのは目に見えている。この国では休むこと=怠けることという強固な方程式があって、休みはモーレツに働いた後の報酬としてのみ与えられる上の方からの頂き物という観念があるのだ。
今はどうかよく知らないが、昔の学校では「皆勤賞」というのがあった。戦前の学校では「優等賞」がまずあって、成績の良い子は全生徒の前で校長先生から表彰してもらえた。それとともに勉強はダメでも毎日頑張って登校して一日も休まない子には「皆勤賞」が与えられた。
戦後は「民主化」が進んで?優等賞は無くなったが私の子どもの頃には「皆勤賞」は残っていた。
「休まないことはいいことだ」という思いは小さいころから日本人の心に刷り込まれている信念なのである。それに逆らって休むことを要求するには相当の勇気がいる。勇気を支える実力や実績も必要になるだろう。
有給休暇は勤続すれば毎年増える。規定では6年6カ月以上働けば年間20労働日の有休がもらえることになっている。これはILO(国際労働機関)の規定する有休3労働週という規定に見合っている。しかし、EU諸国の規定はこれを超えて4労働週である。1年間のうちほぼ1カ月は休んでいい日ということだ。この規定によって西欧の長いバカンスが可能になっている(北欧では6週間に及ぶところもある)。
わが日本では勤労者の有給休暇の平均付与日数はおよそ15日だが、この取得率は何と50%で休暇の半分は空しく捨てられているのである。私は毎年、この取得率のチェックをしているのだが、もう何十年も50%の線をちょっと上がったり下がったりして増える気配がない。
コロナで少しは上向くかと思ったが、どうもそうでもないようだ。大事な「自分の時間」を惜しげもなくゴミ箱に捨てる社会、これでは休みを取るのに蛮勇を振るわねばならいことになる。
「人を大切にする経営学会」というすてきな学会があってその会長である坂本光司氏が東京新聞夕刊のコラムを書いておられるが、その66回目にこんな話が載っていた。
ある中小企業を訪れたら有休取得率が30%だという。社長さんに低すぎると苦言を呈したら、その社長「ウチの社員は仕事の方が楽しいのでなかなか休んでくれない」と嘯(うそぶ)いたと。この会社では休みを取ったら後ろ指を指されるに違いない。
一方、高知県にある不動産の会社で従業員満足度が高く、顧客満足度も最高というモデル企業があるが、有休消化率は100%、職場では従業員が互いに助け合う雰囲気に満ちているという。
「24時間働けますか?」という栄養ドリンクのキャッチコピーは広く知れわたっているが、もはやそんなモーレツ社員の時代ではない。老大国日本は徐々に、確実に沈みつつあるのだ。
それを救うのは非人間的な長時間労働ではなく、取るべき休暇をおたがいに保証し合い、心とからだの健康を大事にする風土を育て、みんなが活かしあえ職場をつくることである。
勤労者の皆さん、遠慮なく休みを取りましょう。
#32 「地余暇」のすすめ(2022年9月14日)
【つぶやき】
「地余暇」(じ・よか、と読んでほしい)というのは聞き慣れない用語だろう。
それもそのはず、かく申す余暇人碩翁の造語だから、実はどなたもご存じない。
意味は「地元の余暇」ということ、地方(じかた)とか地酒とかいう時の「地」、
「地余暇」は住み慣れた身の回りの世界で過ごす余暇、
カタカナにすれば「ローカル・レジャー」ということになる。
一般に、余暇というと全く個人的・私(わたくし)的な余暇がまず頭に浮かび、
次には、生活の場を離れて盛り場やレジャーランドに出向いたり、
あるいは遠くの街や、果ては外国に出かけたりすることがイメージされる。
自宅に引きこもりか、お出かけレジャーか―しかし、その真ん中にある「地元」をお忘れなく。
地つきの余暇を豊かにしよう、それが「地余暇のすすめ」である。
【解説】
ひと昔前の日本人は「地元」を大切に生きてきた。というより「地元」が世界だった。
農家なら地元こそが生産の場であり消費の場でもあって、田畑を耕す労働も、そこから離れて遊び楽しみ、祭りを盛り上げたりするのもすべて地元で行われた。
都市でも前世紀後半の高度成長期以前には、地元の生活が大きな位置を占めていたのは農村と変わらない。
評判になった映画「三丁目の夕日」は、東京タワーが立ちあがる以前の、長閑な下町の生活が面白く描かれていた。
しかし、高度成長もバブルも終わり、「失なわれた10年、20年」が過ぎて行く中で、活気ある地元生活もまた失われて行った。街の商店街の八百屋も魚屋も肉屋も、あるいは荒物屋も大工も左官屋も次々と姿を消してゆき、どこへ行っても同じようなコンビニやスパーマーケットやショッピングセンターに置き換わってしまった。
地元の社交の場だった食堂も居酒屋も喫茶店も、これまたそれぞれのチェーンストアに駆逐されて、どの街にも目につくのはマクドナルドやケンタッキー・フライド・チキンのようなファーストフード店ばかり。
昔、私が憩いの場にしていたような街中のしゃれた喫茶店―そこに行けば誰か仲間がいたり、マスターやウエイトレスのおばさんと気楽に話もできた―は今ではどこを探しても見つからず、コーヒーを飲みたければスタバかドトールか...というのが常態になってしまった。
地元という雰囲気を生み出すために不可欠な装置だった商店や飲食店が次々消えていくとともに、私たちの余暇の「地元性」もどんどん失われていった。
仕事帰りに、あるいは週末の余暇時間に、ちょっと立ち寄ってお茶を飲んだり、他の町にはない「地酒」を楽しんだりするのは、生活に安らぎと彩りをもたらしてくれるだけでなく、この町に住んで、この町を自分と仲間たちの領分として慈しみ、コミュニティ意識を育てる大きな意味があったのだが、それはほんの半世紀ぐらいの間にものの見事に破壊されてしまった。
「地余暇」を奪われた人々は、個別の趣味の世界に閉じこもるか、地域を見捨てて、山のあなたの幸せを求めに行くしかなくなってしまったのだ。
ここ2年半ほど猛威を振るった(今でもふるい続けている)コロナ禍が人々の分断をさらに加速し、近所の人もみんなマスク仕立てだから、よほど親しくないと誰が誰やら分からない。
地元生活は生活に欠かせない物品を急いで買い集めるだけの場に成り下がってしまった。
だからこそ「地余暇」の復活と再興が求められる。みんなの余暇を近所に持ち寄って、無駄話に花を咲かせたり、公園でちょっとした運動をしたり、囲碁・将棋、ブリッジに麻雀に興じたり、なじみの居酒屋に集合して大気炎を上げたりするような地つきの余暇の場を取り戻さなくてはならない。
昨今のはやりの用語で言うと、こういうのは「サードプレイス」と呼ばれている。
家庭という第1の居場所、職場という第2の場、それに対して自由で気楽な交流のある第3の場ということだ。サードプレイスを広げていく前提は、各人が自分の余暇を軽々に旅行会社や運搬事業に売り渡すのではなく、まずは自分の身の回りに投資することが必要である。
市民の「地余暇」が集まって一つの力になることがコロナ後の社会の再編成のために欠かせない課題である。
#31 癒しのための余暇(2022年9月4日)
【つぶやき】
人間だれしも病気になる。
病気になったらどうするか、
医者にかかって診断してもらう、
注射を打ったり薬を処方してもらったり、
場合によっては手術が必要かも知れない。
病を治してくれるのは医者か薬か病院か、
いや、実はそれらはみんな治療の入り口であって
ほんとうに病を癒してくれるのは「余暇」である。
仕事も義務も約束も、みんな放り出して、
ひたすら余暇を享受してこそ、
人は健康を取り戻すことができる。
【解説】
余暇の究極の役割は「癒し」である。病気になったら休むしか手立てがないというのは世界の常識である。仕事から離れ、落ち着ける場所で静かに過ごすこと、これしかない。
医者も薬も病いを癒す応援をしてくれるだけで、病いを克服する力は自分の中から呼び出すほかはないのである。そして「余暇」という空白の時間こそが、私たちが自然からもらった「治癒力」を活性化する唯一の条件である。
余暇人碩翁もこの夏、コロナに感染してしまった。ワクチン接種は3回終わり、もうすぐ4回目という矢先、発熱して検査を受けたら陽性だった。どこでもらってきたのか見当もつかないが、同居の家族のことを考えて、いちばんの濃厚接触者である家内ととともに、近くにある山荘に引きこもった。
ここは高層のマンション群が並ぶニュータウンの外側で、周囲には緑豊かな里山が広がり、点在する家々はみなひっそりしている。山荘にはテレビも電話もなくラジオだけ、新聞も来ない。
ノートパソコンをスマホのテザリングでインターネットにつなぐことはできるが、接続は不安定でしょっちゅう切れてしまう。
情報は一気に少なくなって、その分、静かな時間が流れる。漫然と本を広げたり、音楽を聴いたり、庭のバラの花を愛でたり、ベランダ園芸のトマトを収穫して食べたり…という長閑な日々が続いた。
幸いコロナは軽症で、熱はすぐに下がり、咳がしばらく抜けなかっただけで、特に体調が悪くなることはなかった。とはいえ、味覚と嗅覚が減退し「コーヒーが香らない」のに愕然としたり、食べるものが少しも美味しくないという体験はした。それよりも重大だと思ったのは「やる気」が低下して、倦怠感というのか無力感というのか、この世の中が面白くなくなっていく感じがあったことだ。コロナというのは、高慢ちきな人間たちに、人間のダメさ加減を味わわせるために大自然が送り込んできたメッセンジャーかもしれない。
ともあれ2週間の予期せぬ余暇を静かに過ごしたおかげで、身体の良好な感覚も精神の前向きな姿勢も蘇って「つぶやき余暇」を書く元気を取り戻すことができた。
病院からもらった薬はありきたりの解熱剤と咳止めだけで、もちろん無駄ではなかったが、治癒したのは自分自身にそれだけの活力がまだ残っていたからだと思う。
それを可能にしてくれたのが、毎日が余暇の落ち着いた日々だった。
日本人の余暇貧乏はこのコラムでも何度も問題にしてきたが、余暇を失うことは治癒力を減退させることだという事実を強調しておきたい。
余暇のない分、元気の出るというビタミン剤なんかに頼るのは愚策である。
まずは権利として与えられている自分の余暇をしっかりキープしよう。
それは心身の健康の支えであり、意欲を持って社会と関わっていくための根拠地である。
#30 七日に一度休むのはなぜ(2022年8月24日)
【つぶやき】
日曜日について、ひとつ疑問を出してみよう。
月火水木金土と来て7日目の日曜日が休日、
これは今や世界の常識だ(近年は土曜日も休みだ)が、
そもそもなぜ6日働いて7日目が余暇の日なのだろうか。
旧約聖書によれば、神様がこの世を作り出すのに6日かかった、
7日目に神さまは世界の出来栄えに満足して休息を取った、
そこで人間たちもそれに倣って6日働き、7日目は神を称える日にしたという。
これはキリスト教徒なら納得できるかもしれないが、他の宗教ではどうなのか。
7日周期というサイクルに何か合理的根拠はあるのだろうか。
【解説】
私たちが10進法を使っているのは、言うまでもなく左右の指が合わせて10本だからである。数学的には6進法だって7進法だっていいので、現にコンピューターは0と1しかない2進法で全ての数を処理している。
人間の指が3本ずつしかなかったら、6進法が普及していただろう。
1年が12カ月であるのは、月が12回満ち欠けすると、地球が太陽の周りをほぼ一回りして、元に戻るからに他ならない。そこで12を一まとまりとする数の秩序ができ、1ダースは12個ということになり、イギリスの通貨の1シリング12ペンスで、そのほかあれこれ12進法が使われている。
ところが1週間の7という数字には、格別このような根拠がないように見える。なぜ、7でなくてはならないのか。
ユダヤ教の神様は6日働いて7日目に休んだかもしれないが、他の文化圏ではそれにとらわれず、5日働いたら1日骨休めでもいいのではないか。確かに、近代以前の日本では七曜制というものはなかった。
では、当時の人々は休日もなしに働きづめに働いていたのだろうか。もちろんそんなことはない。
江戸時代の農村の働き方をチェックした古川貞夫『村の遊び日』(平凡社選書、1986年)という面白い本がある。それによると地域によって違いはあるものの、全国の農村では「遊び日」という休日がきちんと定められていたことがわかる。現在は長野県上田市になる上塩尻村の規定を見ると、正月には三が日、7日、13日、15日、16日、20日と8日間も遊び日があり、月によって大きく変わるとはいえ(農繁期の8月は朔日(1日)しか休めない)、10月までに合計30日の休日が決められている。
「遊び日」というのは本来、人間が勝手に遊ぶのではなくて、神様(仏様)とともに遊ぶ祝日のことであった。正月や盆などの年中行事、村の祭礼、それぞれの家の先祖供養の日などである。さらに、これに加えて若者たちが団結して村役人に要求して勝ち取った「休み日」というのもあった。これは純粋に労働からの休養の日ということで、時代を下るととともに増えて行った。両者を加えると、7日に1回の休みがあったことになり、近代の週休制と大差なくなってくる。
山形県の庄内藩の万治元年(1660年)の布達を見ると「常々休日は七日稼ぎ、八日目に休むべきこと」という規則的な規定も見られる。労働週は8日間を単位にしていたというわけだ。
この規定は50年ほど後になるとさらに前進し、「休日のこと、毎月七日に一日の休息、前々の通り仕るべし」となって、労働週が1日短縮される。
現在のカレンダーと全く変わらない休日規定が定められていたとは、まことに興味深い事実である。
どうやら人間の生体の活力は、労働を続けると次第に低下し、6日か7日で枯渇するようだ。そこまで行ったら1日ゆっくりと休養を取って元気回復を目指さないといけない。
そうでなければ、長く働き続けることはできないのである。第二次大戦中、日本では無茶苦茶な長時間労働が奨励され、「月月火水木金金」という、土日抹殺の標語が貼り出されたりしたが、それがいかに無謀で非人間的な愚挙であることは明らかだろう。
そんなことで戦争に勝てるはずはないのである。
「7」という数字に、一目瞭然に理解できる根拠は見つけにくいが、人間の生理に基づく、一区切りの目安としてちょうどよろしいということだろう。そういえば、7は何となくお目出度い感じのするする数字で、ラッキーセブンはもとより、七福神とか七五三とか「七つの海を乗り越えて」とか、何となく幸せなイメージを持っている。いわゆる縁起のいい数字なのだ。われわれ余暇族も「7」を尊重して「七色の余暇」を楽しもうではありませんか。
#29 あの世につながる余暇(2022年8月14日)
【つぶやき】
8月の中旬はお盆、これこそ日本固有のバカンスだ。
都会に住む若い家族は休暇を取り、一家そろって郷里へ帰る。
田舎には父母ばかりでなく、おじいちゃんやおばあちゃん
あるいは親戚のおばさん、おじさん、いとこ(従弟、従妹)たちも待ち受けていて
正月と並ぶ一族再会の時となる・・・。
それだけではない、お盆は先祖供養の日である。
ご先祖様の霊があの世から帰ってきて
子孫たちと交流し、安堵のもとにあの世へ戻っていく。
ひとときの余暇を介してあの世とこの世がつながる。
こんな意味深い余暇はそんなにあるものではない。
【解説】
「お盆」という言葉は省略形で、正しくは「盂蘭盆 うらぼん」という仏教用語である。
大もとは仏典を記述する梵語(古代インドのサンスクリット語)でullambanaと呼ばれ、祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事のことだ。
漢訳では、この音にそのまま漢字を当てて「盂蘭盆」となった。それが日本にまでも入ってきたのである。陰暦7月13~16日を中心に行われる行事である。
太陽暦に直すと今年は8月10日~13日にあたる(正確にはそうなのだが、そのまま1か月ずらして8月13~16日に行うことが多い)。
筆者の子どものころには「祖先の霊に供物を捧げ冥福を祈る日」としてどの家でもきちんと行われてきた。
まずお盆の初日の夕方に迎え火を焚く。玄関先で小さな火を焚いて、先祖の霊が帰る家を間違わないように目印にしてもらうわけだ。焚くものは決まっていて「おがら」というものでなくてはならない。
これは麻の茎の皮をむいた中身を乾燥させたもので、細い棒状になっているのを小皿に乗せて燃やす。
子どもは誰も火をつけるのが大好きだから、これは楽しみだった。
今でもお盆時期には花屋やスーパーで「苧殻=おがら」を売っているはずである。
お盆には仏壇のほかに特別の飾り棚を作ることもあった。位牌を安置した棚にはキュウリとナスに割りばしで足をつけた「精霊馬」を置いたものだ。
キュウリは馬でナスは牛という見立てである。これは先祖の霊の乗り物で、来るときはキュウリ馬でさっそうと、お戻りはナス牛でゆったりとお帰りいただくという趣向である。
飾り棚には小さな膳を供える。小さな茶碗にご飯を盛り、野菜や漬物の皿をつけ、ご先祖様に美味しく召し上がっていただくのである。
仏壇には燈明をともし、お経を読み、線香をあげる。菩提寺のお坊さんがやってきて読経をしてくれることもあった。
こうしてお盆は、先祖の霊ともどもに過ごす休日なのだった。
実際、昔の人たちは家の中に祖霊たちが大勢やってきてくつろいでいる気配を感じていたのではないかと思う。「みんな仲良くやっているかい?」「ええ、我が家は大丈夫ですよ、ご安心ください」というような対話を交わしていたのかもしれない。
そしてお盆明けの夕方には再び門前で「送り火」を焚いて、帰る霊たちをお見送りするというわけだ。
多くの人たちがマンション暮らしの今日、玄関先で迎え火を焚くのはちょっとはばかられるし、若い世代の家には仏壇なぞないかもしれない。田舎があれば、家族そろって帰省してお墓参りもできるわけだが、帰るところのない故郷喪失の世代が多くなっているだろう。お盆休みは純粋の休暇になって、海や山に向かう車の大群が高速道路に押しかけ、渋滞何十キロという光景がテレビニュースで報道されるのが今日のお盆である。
しかし、日本人の生活に長く定着してきたお盆を忘れ去ってしまうのも考えものだ。
お盆という機会に我が家のルーツをたずねて「ふるさと探し」の旅に出てみるのも面白いのではないだろうか。こういう行動は「余暇」がなければできないことで、実際、余暇というものの役割の一つは、今ここにある現実を超え、過去の時空に入り込んで、自分の時間を悠久の時の流れに接続してみることにあるのだ。
私の一生は伸びに伸ばしたところで高々100年、しかし、先祖から先祖へたどっていけば、何百年、何千年という時の累積を確かめることができる。また、方向を未来に向けて、人間の行く末を考えてみることもできる。
余暇はまさしく「永遠」とつながる時間なのである。
#28 「旅」はいつから「食べ」になった?(2022年8月4日)
【つぶやき】
本屋を覗くと旅の本のコーナーがあり、
北海道から沖縄まで、各地の旅のガイドブックが並んでいる。
表紙の写真には名だたる観光地の美しい風景が使われているが、
本文を開いてみると、名所旧跡はホンの付け足しで、
はじめから終わりまで食べ物満載グルメの本だ。
昔の旅行案内はこうではなかった。
その土地の歴史に始まり、景勝地や神社仏閣を紹介、
遊園地や動物園や水族館はもちろんだが、
温泉案内や山歩き、ハイキングのコースが掲載されて、
歩き方の解説はあっても食べ方の説明はほとんどなかった。
かつての旅の本はいまや「食べ」の本に変貌した。
これは進歩というべきか、退歩というべきか。
【解説】
本屋に行くと旅の本のコーナーがあって、日本全国はもちろん、ヨーロッパからアメリカ、アジア、アフリカまで世界中の旅のガイドブックが並んでいる。その中の国内旅行の本をパラパラめくって見ると、カラフルなページを埋めているのは、食べ物また食べ物である。まずは名産の肉やら魚やら野菜から果物までの紹介があり、それを使った料理を食べるなら、あの料亭、このレストラン、デザートならこちらのカフェ…という次第で全冊グルメガイドになっている。
もちろんよく見ると、その地の有名観光地—自然景観から温泉、古いお寺など歴史的建造物、動物園や水族館やレジャーランド、さらには宿泊施設や交通案内などの情報も紹介もされてはいるが、どう見てもそれらがメインではなく、美味しい料理をたらふく食べた後の腹ごなしに訪ねてみてはどうですか、という感じなのだ。旅の喜びの核心にあるのは今や「たび」ならぬ「食べ」の楽しみということのようだ。
余暇人碩翁の若いころはこうではなかったな、と思って、昔むかしの旅行案内を探してみた。手に入ったのは日本交通公社の『最新旅行案内7 伊豆・箱根』という小ぶりの本、発行年は1962年の改訂版である。今からちょうど60年前に出た本だ。表紙には箱根の芦ノ湖とその向こうに雪を頂いた富士山を望むカラー写真が印刷されている。このガイドブックは北海道から九州まで主要な観光地を網羅した20冊ほどのシリーズで、当時は各地の本を何冊も持っていたことを思い出す。
開いて見ると全体を湘南、箱根と熱海、伊豆、伊豆七島の4部に分けて、それぞれまずはその地域の特色と歴史が丁寧に紹介されている。鎌倉ならば、源頼朝や鎌倉時代の解説に始まり、建長寺、円覚寺から始めて古いお寺それぞれの由緒や建築の説明が続く。箱根ならば、まずは箱根の地形を解説して温泉の概要を述べ、それぞれの温泉の泉質、泉温、効能などが記されている。どんなコースで周遊すればいいか、いくつもの事例を上げて、所要時間や料金が細かく書かれている。旅行案内の主要な内容は「地誌」だと言っていい。旅とはその土地を見に行くことだったのである。
食べることに関する記述はどれくらいあるか探してみた。ほとんど皆無と言ってよい。わずかに1つ「天城の味覚」という3分の1ページほどの囲み記事を見つけた。書いてあるのは名産ワサビの起源について。もう一つは「猪鍋」で、味の良さと料理法を示した後、「猪肉はどんなに熱い肉を食べても口の中を絶対にやけどしない」と書いてある。写真も何も添えられていない。
旅も変わったものである。知らない土地を観に行く観光の旅は、美味しいものを食べに行くグルメの余暇に置き替わったということだ。「観る旅」から「食べる旅」への転換は余暇の充実なのだろうか、それとも余暇の退廃なのだろうか。
#27 余暇に仕事を見に行く(2022年7月24日)
【つぶやき】
余暇というのは仕事の現場を離れて始まる。
仕事のことはさっぱりと忘れて、自分の好きなことをしよう、
今まで行ったことのないところに行ってみよう。
さて、どこに行ったものか、盛り場か遊園地か見知らぬ街か。
これが当たり前の余暇の姿だ。
しかし、ちょっと風変わりな余暇もある。
それは仕事の現場、オフィスや作業場や工場や
そこでいろんな仕事が現に行われている場を訪ねて、
余暇の目線で人が働く光景を眺めて見ようという趣向だ。
そこには思いがけない発見や感動があるのだ。
【解説】
せっかくの余暇時間に自分の職場に戻ったのでは余暇が台無しだが、方向を変えて他人さまの職場を訪ねてみると、これがなかなか面白い体験が得られる。
わかりやすいのは何かモノを作っている工場に行って見ることだ。広大な空間に大きなエンジンがうなりを上げ、ベルトコンベアが回転し、次から次へと製品が吐き出されてくる様子を見てみよう。
われわれの消費社会を組み立ている身近な生活用品から食料品、衣料品、テレビやクーラーなどの電化製品、オートバイから乗用車まで、それらが生産される現場こそ、現代の科学技術の粋を集めた壮大なショーの舞台なのである。
いささか旧聞に属するが、筆者は若いころ月刊『レクリエーション』という余暇と遊びの雑誌の編集者で、多種多様なレクリエーション・プログラムを探し求めていた。ある時「工場見学」というのは面白いのではないかと思いついて、伝手を頼ってさまざまな工場の見学に赴いた。
多種多様な工場を回ったが、今でも強烈に脳裏に残っているのは、製鉄会社の圧延工場である。溶鉱炉から流れてくる1000度以上の溶けた銑鉄を薄く延ばして大きな川のように流してゆき、薄い鉄板に引き伸ばして巻き取るのである。
真っ赤に溶けた鉄がごうごうと流れていく時の強烈な熱気と光、それをはるか離れた見学台から見晴らすのだが、これは何とも言葉にできない壮観だった。
車のタイヤを作る工程も面白かった。タイヤは軸の周りにゴムの生地を何層にも巻き重ねて形に仕上げていく。1つ1つ丹念に手づくりしていく感じで、一丁上がるとくるくると回しながら運んで行くのだが、さわってみると温かく、大きなロールケーキを作っているようだった(今ではもっとオートメ化しているのかもしれないが)。
期待はずれだったのは写真フィルムの工場で、赤い小さな電灯が所々に灯るだけでほとんど闇の中みたいな空間で、何かがうごめいているのだが、ほとんど何も見えなかった。フィルムが感光してしまっては台無しだからこれは当然だが、見学向きではないと思った。
このように生産現場を市民に開放し見学してもらう事業は「産業観光」と言われ、さまざまな分野で行われている。一番ポピュラーなのはビール工場で、麒麟でもアサヒでもサッポロでも、各地の工場が見学コースを設けているので、体験した方も多いだろう。
製造工程自体は大きな発酵槽を見て歩くぐらいで、さほど面白いものではないが、一巡した後は出来たてのビールを一杯ご馳走してくれるので人気がある。札幌の「サッポロビール園」のように、もはや生産はしていない古い工場の施設を使って、ビール博物館があったりジンギスカン料理のレストランがあったり、完全にレジャー施設化したところもある。
そのほか、よく知られた見学コースには茨城県五霞市にあるキューピーのマヨネーズ工場とか、静岡県浜松市のヤマハ本社のグランドピアノ工場、愛知県豊田市のトヨタ会館の自動車工場見学コースなどがある。いずれも有名観光地なみの盛況を見せている。
こうした大掛かりなものばかりでなく、わが町の「産業観光」を開発することも大切だと思う。地元の企業の工場やオフィス、IT関連の事業所、ショッピングセンターの裏方の様子、あるいは上下水道の施設やごみ処理場などの公共施設、農業関係で水田や畑や農産物の加工場、海に近いところなら漁港や魚の処理場など、さまざまな現場がある。
たいていの事業所は、それぞれの仕事の理解に役立つ「見学」に好意的に対処してくれるだろう。余暇の役割は、余暇の土台となる仕事の現場についての知識と理解を深めることでもあるはずだ。
#26 バカンスとその起源(2022年7月14日)
【つぶやき】
今日は7月14日、今年(2022年)はたまたま満月の日だが、
この日は世界史を揺るがした記念日であることをご承知だろうか。
1789年7月14日は、フランス革命勃発の日である。
パリの民衆が立ち上がってバスティーユ監獄を襲って囚人を解放、
そこから動乱が始まってとうとう長く続いた王政が打倒され、
市民が主人公の近代社会が始まったことは、みなさん歴史で習った通りだ。
かの地では「フランス国民祭典」の祝日で、日本では「パリ祭」の日として知られている。
この日には革命とともに、もう一つ大切な意味がある。
お祭りを楽しんだら、いよいよ待ちに待ったバカンスが始まるからだ。
この日を境に、老いも若きも仕事から解放されて、長い長い余暇の季節に突入する。
【解説】
7月14日〈フランス語でカトーズ(14)・ジュイエ(7月)は特別な日だ〉は、国民の祭典の日であるとともに、このあたりからバカンスを始める区切りの日でもある。
フランスの勤労者は一般に5週間程度の有給休暇を持っているが(わが日本はせいぜい2週間、それも大抵の人は半分しか取れていない)、休みが集中するのはやっぱり夏で、多くの市民は太陽を求めて地中海の海辺や南部プロバンスの田舎、あるいはアルプスの高原地帯などへ出かけていく。
パリから各地へ向かう高速道路は、生活用品を詰め込んだ車やキャンピングカーで大渋滞となる。飛行機を奮発してエキゾティックな東洋を目指す人もいる。
日本へもコロナ以前はたくさんのバカンス客がやってきていた。パリの人口は半減し、目立つのはアフリカからやってきた出稼ぎの労働者、人が減るので道路工事やビルの修復工事なんかが盛んになる。
だからパリの街と人を楽しみたければ、バカンスの時期なんかに行ってはダメだ。
長いバカンス、さぞやお金がかかるだろうと多くの日本人は心配する。
確かに、海外に飛んで長期にホテルに滞在したら相当な出費になるわけだが、そういうバカンスはお金持ちに限られる。普通の市民はもっと安上がりなバカンスを楽しんでいる。
ヨーロッパ中どこへ行ってもゆったりしたキャンプ場があるし、地中海の海辺には政府が開発した巨大なバカンス村もあって安価に泊まれる。食事もコンビニで買ってきたような簡素なものだ。
旅と言っても彼らは我々のようにちょこまか動いたりせずに、海辺や緑の中でひたすら太陽を浴びて余暇そのものを楽しんでいる。
キャンプ村に行ってみると、ご婦人方はみな簡易ベッドに寝転んで豊満なお身体を惜しげもなく日に晒していて、いっかな動こうとはしない。
傍らで小さな火を起こしてコーヒーを淹れたりソーセージを焼いたりしているのはみな男性諸君である。おいしい野外料理の1つや2つできないことには、まともな男(夫)とは見てもらえないというわけだ。
我々日本人も温泉旅館で上げ膳据え膳というスタイルだけではなく、自然の中で簡素に閑雅に時間の流れを楽しむ「バカンス術」をもっと開拓する必要がありそうだ。
ヨーロッパの夏に長いバカンスが確立したのはなぜだろう。
それはかの地は「麦作」の社会であり、秋に蒔いて初夏に収穫するから夏はゆっくり骨休みのできる農閑期なのだ。その上、全体に気温の低い土地だから、暖かい夏は自然からの得難い贈り物だ。
高緯度で特に長い暗い冬を余儀なくされる北欧となると、夏には日光浴が必須である。
彼らは海岸や野原はもちろん、街の通りでもはばかることなく、それこそスッポンポンで夏の陽を浴びている。これをおろそかにすると、くる病(骨軟化症)というコワい病気になる可能性が増すという。
翻ってわが方を顧みれば、ここは「稲作」の社会である。
初夏に田植えして秋に収穫、夏は草取りに追われながら稲の生長を見守る大切な時期であり、とてもじゃないが暑いからと言ってのんびり休んでなどいられない。
それでも猛暑でブッ倒れてしまっては元も子もないから「お盆」という小さなバカンスを作って、夕涼みをしてスイカを食べたり、親元に帰ったりしてしばしの息抜きをする習慣を生み出してきた。
しかし、今や田んぼを耕す農家はひと握り、大多数の人は街暮らしなのだから、日本社会ももっと夏のバカンスの拡大に取り組んでもいいのではないか。
最近のハンパでない夏の暑さに対処するには、ヨーロッパと反対に北を目指すのが日本的バカンスの王道であろう。夏の「北帰行」を定着させて、「金」を使うのではなくて「時」を豊かに使う余暇術を追求しよう。
#25 余暇には旅に出よう(2022年7月4日)
【つぶやき】
まとまった余暇ができると旅に行きたくなる人は多いだろう。
2,3日の余暇なら近場の温泉へでも行こうか、
1週間も余暇が得られるならちょっと遠出をして、
この列島の端の方や離れ島を訪ねてみたくなる。
それとも思い切って外国へ…
余暇の中にはどうやら「お出かけ志向」が埋めこまれていて、
余暇が大きくなればなるほど遠くへ、
まだ見ぬ国や地方への思いが深くなる。
余暇とは旅の原動力であり、旅こそ余暇の王様なのだ。
【解説】
今から2千年も昔、いわゆる縄文時代の終わりごろまでは、ヒト族は移動しながら暮らしていたと思われる。当時は「狩猟採集」経済の時代だから、一つ所にじっとしていては暮らしが立たない。獲物を求め、木の実や食用になる植物を追って、あちらこちらを動き回っていた。要するに旅が暮らしの常態だったということになる。縄文時代は1万年も続いていたのだから「旅する本能」みたいなものは、私たちの魂の底の方にがっちりと据えられているはずである。
稲作を中心に農耕の始まった弥生時代以来、ヒト族の定住がはじまった。みんなで協力して田圃を作り、春から秋までの長い時間をかけて稲を育て、コメを取って糧にする暮らしになってからは、田圃をほったらかして勝手に動き回るわけにはいかなくなった。田んぼの灌漑には多くの人手が必要だったので、ムラを作って秩序ある生活をせざるを得ない。それによって収穫は安定して、人口は増えていくが、集団生活に伴う義務や拘束や支配や隷従や身近な人間関係の煩わしさにも悩まされることになった。せめて収穫後の農閑期には、住まいを離れ、近郷の温泉場にでも出かけて行って「命の洗濯」をしようと思ったのは無理からぬことである。近年まで東北の農村では、鍋釜担いで一家そろって温泉詣でに出かけ、自炊しながら一日湯につかってのんびりし、酒を飲んだり歌や踊りに興じて、ひと月も日本式バカンスを楽しんでくるという風習があったものである。
旅に出ると言っても古代、中世の旅は、そんなに簡単なものではなかった。道もきちんと整備されていたわけではなく、険しい山や急流に行く手を阻まれ、交通機関は馬ぐらいしかなく、宿も整備されておらず、追いはぎや山賊が出没することも珍しくなかった。旅とは大変な苦難を伴うものだった。この辺の事情は西欧でも同じで、旅を意味する英語のトラベルはフランス語のトラバーユからきているが、これはもともと苦難という意味、現代フランス語のトラバーユは労働ということである。「旅はつらいけど、泣くのじゃない」という「おおスザンナ」の歌詞はまさしく実感だったのである。
世界に先駆けて旅を安全で楽しいものになしとげたのはわが日本である。徳川時代の長く続いた平和の中で(同時期のヨーロッパは宗教戦争から国土分取り合戦まで戦争に次ぐ戦争だった)、暮らしは安定し、商品が流通し、交通網も整備された。主要な街道には宿場が設けられて、庶民も安心して旅のできる時代になったのである。江戸の長屋の住人も、八つぁん熊さんが連れだって大山詣で(神奈川県秦野の阿夫利神社)に出かけ、帰りは江の島、鎌倉を見物して帰るという1週間ぐらいの旅を楽しんでいる。少しお金をためて、お伊勢参りから京・大阪を回ってくる定番のコースもあった。全行程徒歩(時々馬か駕籠もあり)だから1ヶ月はかかったはずで、現在なら外国旅行に相当しよう。しかし、それぐらいは珍しいことではなく、山形の酒田のある商家のおかみさんは、下男一人を連れて江戸から伊勢、大阪、京都を訪ね、帰りは北陸回りで帰宅する3ヵ月にも及ぶ旅を楽しんでいる。彼女が残した旅行記によると、いかにも楽し気に各地の名所旧跡を訪ね、そこここの珍味に舌鼓を打っている。大都市では芝居はもちろん、遊郭に上がり込んで、芸妓の歌や踊りを見物していて(それ以上のことはしていないようだが)、当時の遊び客が男だけではなかったことを教えてくれる。また彼女は行く先々でお土産を買い、それを飛脚便(今なら宅急便)で次々と留守宅に送ってもいるのだ。現在のツアーに比べて遜色がないし、余暇の長さから言えば現在以上である。江戸の余暇はなかなか大した水準にまで達していたのである。
コロナ禍で移動が制限され、この2年ほど、外国旅行はご法度、国内もせいぜい隣県ぐらいしか行けないという状態が続いた。余暇はそこそこあっても、旅ができないことのつまらなさ、味気無さを多くの国民が味わったはずだ。かくいう余暇翁も2年間、飛行機にも新幹線にも乗っていない。やっと少しコロナの緩みが見えたようなので、この文章がアップされる頃には札幌に向かう機上の人になっているはずである。改めて余暇の味わいとともに、「いい旅」とはどんな旅なのかを考えて来たい。では、オー・ルヴォアール!(念のため:フランス語のサヨナラ、また会いましょう)。
#24 余暇の友は酒・・・(2022年6月24日)
【つぶやき】
世の多くの人は酒を飲む
とりあえずはビール、続いてチューハイだ、水割りだ、日本酒だ...
酒は酒を呼び、次々と盃を重ねていい気持ちになる。
酒を飲むのは余暇においてである。
仕事中に酔っぱらっていたら間違いなくクビになる。
酒が飲める時間・・・それこそが余暇である証拠といえる。
余暇にもいろいろある、仕事帰りの余暇、週末の余暇、もっと長い休暇、
余暇に合わせて酒の飲み方も千変万化する。
それぞれの余暇にふさわしい酒の飲み方を考えよう。
【解説】
仕事と余暇を弁別するのに「酒」ほど分かりやすいものはない。仕事というのはあっさり言えば酒を飲まない時間であり、余暇とは取りも直さず酒が飲める時間である。だからこそサラリーマン諸君は終業時刻を待ちかねて、5時を過ぎればそれっとばかり仲間を語らって街へ繰り出す。目指すはなじみの赤提灯、夏場ならビルの屋上のビヤガーデンも悪くない。老いも若きもそれぞれの余暇を持ち寄って好みの酒を呼び寄せる。そこにいっとき出現するのは余暇のパラダイスである。
人類が酒を発見したのはいったいいつのことだろうか。縄文人は酒を飲んでいたのだろうか。木の実を集めて食材にしていた彼らは、俗にサル酒と言われる自然にできる果実酒を知り、それを味わうこともあったのではないだろうか。その後の弥生時代になると、酒は確実に存在した。稲作によって得られた米を蒸して発酵させてアルコールを作る技術は早くに確立していて、今に伝わる日本酒の製法はそれを受け継いでいるという。
稲作と酒が結びついているのは、余暇人から見ると、稲の耕作が半端でない労働を必要としていることと関係があると思う。田んぼを耕し、苗を植え、草取りをし、スズメを追い払い、イナゴを捕らえて稲を守るのは気の抜けない作業の連続だ。初夏から猛暑の夏を経て、秋の実りの季節まで、働きづめに働いてやっと豊かな実りを手にすることができる。収穫が終われば農閑期―待ちに待った余暇のシーズンである。お米から醸した酒を飲んで、歌って踊って愉快に過ごそう、というのはまことに自然な流れである。労働は余暇によって維持され、余暇は酒によって支えられるというのが人の世の習いということだ。
仕事にもいろいろな種類があるので、その仕事人の余暇もバラエティに富んでいる。ホワイトカラーの余暇とブルーカラーの余暇は当然に異なる。余暇が違えば酒も違うというわけで、サラリーマンはビールがお好きだが、道路工事のオジサンたちは、ビールぐらいでは飽き足らずに焼酎をあおる。彼らの間でホップのジュースを焼酎で割った「ホッピー」が流行ったことがある。見かけはビールにそっくりだが、アルコール分は何倍も高いわけで、ビール感覚でぐいぐいあおったら、そのうち腰が抜けるという激しい酒だった。
ビジネスマンの余暇にはスコッチが似合うだろう。有閑マダムは熟成されたワインのグラスを手に優雅に語り合っておいでだ。そしてリタイアして悠々自適のシニアの皆さんは、何と言ってもヤマト民族が守り続けてきた日本酒こそ一番だとばかり、旧友たちと盃を交わしながら俳句の1つもひねろうという次第になる。
余暇は酒とともに、酒は余暇とともに。両者の切っても切れない関係はこれからも長く続くことだろう。
#23 学歴、職歴、加えて余暇歴(2022年6月14日)
【つぶやき】
どこかへ就職しようと思ったら履歴書を書いて出すのが一般だ。
そこに記すことを求められるのはまずは学歴、
その次はそれまでに就いた仕事の履歴、
履歴といえばこの2つが頭に浮かぶ人が多いだろう。
だが履歴書に、もう一つ書くことがあるのを忘れちゃいけません。
それは「趣味」とか「特技」の欄。
仕事以外にどんなことに興味を持ち、どんな活動をしていますか、
これはその人の人柄や人間の幅を知るのに重要な項目なのだ。
趣味や特技を持てるかどうかは、どんな余暇を積み上げてきたかによって決まる。
「余暇」歴は人の個性を生み出す忘れてならない履歴の1つだ。
【解説】
人はオギャーと生まれてきた時には何者でもない。乳を吸うことと泣き叫ぶことしかできない「のっぺらぼう」の存在に過ぎない。彼または彼女はそれからさまざまな体験に身を委ね、世界と交わりつつ、自分の内実を豊かにしていくのである。毎日毎日のさまざまな体験—身体の使い方、心の用い方、人と人との間に生じるやりとり―を収集して一歩一歩自分育てを進めて行くのだ。
子どもの頃、体験を拡大する原動力は「遊び」であった。どんな子どもも遊ばないではいられない。子どもにとっては生きていることがそのまま遊ぶことである。誰かに教わらなくても、自分の内から盛り上がる力に推されて子どもは遊ぶ。それを通じて遊ぶ相手、遊び仲間を見つけ出し、新たな遊びを教わったり教えたりして遊びのメニューが増えて行く。遊びは実に多種多様な種類があるが、数多の遊びに次々と挑戦し、その過程でいろんなことを学んでいく。同時に遊ぶことを喜んだり、驚いたり、恐れたり、悲しんだりして子どもの心の深みが増していく。
幼児期の遊びが少年期、青年期の「余暇」につながって行くのは見やすい道理だ。誰もが行かなくてはならない学校は単に学習の場としてだけあるのではない。学習の「余暇」には自分で選べる好きな活動にも打ち込むことができる。休み時間や放課後のクラブ活動、週末や夏冬の休暇は重要な余暇体験の場として見直されなくてはならない。そこで自由に選んだ活動の中には、教科書の学習では得られない多彩な学びもあれば(テレビに登場する「博士ちゃん」たちを見ると、子どもの知識と言えども半端なものではないことがよく分かる)、音楽やアートに見事な才能を発揮するケースもある。大人顔負けの趣味—碁や将棋などのゲーム類から、切手のコレクション、植物や昆虫採集、美術館、博物館めぐりなどに打ち込む少年・少女たちも少なくない。 学校で教わらないようなことこそ、本当に面白い―彼らは一様にそう証言している。
学歴は職を得るための武器として重要だろう。職歴(キャリア)を積み上げることは、よりステータスの高い職場に向けて社会の階段を昇って行くために欠かせない。しかし、人生は仕事だけでできているわけではないのだ。この世に生まれてきたことを感謝し、悔いのない人生を生きるためには、自由な時間をどれほど自由に使いこなせたかが勝負になる。言葉を換えれば、どれほど豊かな「余暇歴」を書き込めたかということが人生の成功不成功を決めると断じてもいい。
余暇歴の重さが痛感されるのは、リタイアした後である。職業人としての終わり=定年が、ほとんど人生そのものの終わりであったかつての時代と異なり、人生100年時代の今日、学歴や職歴だけでは長い人生を持たせることは難しい。引退して気づいてみたら、余暇は有り余っているというのに、その内容を埋めるべきプログラムが思い当たらないというのでは、あまりに悲しい人生と言うべきではないか。
余暇歴は何歳になっても新たに積み上げることができる。はるか昔の子ども心を思い出して、さまざまなことに好奇心を燃やして、この世界をもう一度眺め直して見るといい。自分自身をもっともっと活かすことができそうなテーマや場所がきっとあるはずだ。新たな余暇発見のために手持ちの余暇を投資すれば、わが人生の価値をもう少し底上げすることができるはずである。
#22 余暇って学問になるの?(2022年6月4日)
【つぶやき】
学問と言えばまずは古典的な哲学、文学、法学、経済学…
理科方面なら医学、化学、物理学、建築学に電子工学…
いずれも立派な大学に学部や学科があって偉い教授たちが犇(ひし)めいている。
ところが近年、いささか風向きが変わって、今風のソフトな学問が増えてきた。
マスコミ学、コミュニケーション学、生活デザイン学あたりから
はては観光まちづくり学、不動産学、演劇学からマンガ学まで、
ユニークな学部・学科を持つ新興大学があちこちに生まれている。
それでもどうしても見つからないのが「余暇」という名前の学部や学科だ。
余暇は学問とは無縁な世界なんだろうか。
【解説】
たいていの人は、余暇なんてただのヒマなんだから、学問になるわけないでしょうとおっしゃるだろう。ヒマでぼんやりしていては勉強にならない。そこから抜け出して真面目に取り組むのが学問だというわけだ。しかし、よくよく考えてほしい。そもそもヒマで自由な時間があるからこそ、あれやこれやと考えを深め、昔の本を調べたり、調査したり実験したりして学問を作って行くことができるのだ。ヒマがなくては学問・研究は生まれない。つまりは余暇こそが学問の土台ということになる。
学問する場所=学校を英語で言うと「スクール」だ。このスクールという言葉の由来をたどって行くと、西欧の古典語であるラテン語の「スコラ」(学校・学派)を経て、ギリシャ語の「スコレー」にたどり着く。そして何と、このスコレーという言葉の意味はまさしく「余暇」なのである。昔々、ギリシャの自由市民(労働は奴隷に任せていた)ソクラテスやプラトンが自由な時間にあれこれ勝手な議論を好きなだけ交わしながら築き上げた哲学—これがその後の諸学問の源になったのである。余暇は学問になるか、どころの話ではなくて余暇とは学問そのものなのであった。
なるほど、余暇=学問が原点だから、かえって「余暇の学問」が生まれにくかったのだろうと読者はお考えだろうか。いやいや、余暇が学問の、さらに広く言えば人間の文化創造の元になっているとしたら、その余暇について、総合的に、深く掘り下げて検討する「余暇学」「レジャー学」があってもいいはずではないか。実際その通りなので、実は余暇学科が存在しないのは日本ぐらいなもので、欧米の大学の学部・学科を調べて見れば「レジャー・スタディーズ」や「レクリエーション・リサーチ」という名の学科はどこにもあるし「レジャー学部」を置く大学さえある。
そうした諸大学の余暇研究者が一堂に会する「世界レジャー会議」が毎年世界各地で開かれていて、筆者もだいぶ以前だが2010年に韓国の春川(日本でも大ヒットしたドラマ『冬のソナタ』の舞台になった町)で開かれた会議に参加したことがある。文化、スポーツ、観光、造園、環境、さらには余暇と哲学、社会学、経済学…など余暇を巡るあらゆる研究分野の研究者が500人も集まって論議を交わす一大イベントだった。筆者も韓国の余暇学者の前で(あちらにはすでに大学院の余暇研究コースが作られていた)日本の余暇の実情を話したものである。
現在までのところ、わが日本では「余暇」問題を総合的に追求する大学の学科はただの1つも存在しない。それどころか余暇やレジャー・レクリエーションをテーマにする科目さえ、いくつかの大学にちらほらとあるだけである。早くに余暇科目を置いたのは立教大学社会学部で、1990年代には「余暇社会論」が講じられていた(筆者も担当したことがある)し、現在も立教の観光学部やコミュニティ福祉学部には余暇科目が置かれているが、単発の科目でしかない。この欄で何度も取り上げている日本人の余暇の貧しさは、市民の日常生活ばかりか学問の領域にまで広がっているのである。
ここで、余暇人碩翁の自慢話?を聞いてもらおう。かつて筆者の勤務していた東京・日野市の実践女子短大の生活福祉学科には「余暇コース」があったことを特記しておきたい。「余暇生活論」や「遊戯文化論」(担当はもちろんかく申す筆者)を軸に、余暇と遊びをめぐる諸理論から実践論、観光や福祉に関するケーススタディと称した実習科目まで合計15科目、学科とまではいかなかったが本邦初演の堂々たる陣容だった。各科目の担当者はいずれも筆者の余暇仲間でユニークな教員ばかりだった。学生には好評で、余暇で就職もできたし、いずれ大学の学科に格上げすることを目指して奮闘したのだが力及ばず、2012年に短大が大学に吸収されるとともに余暇は息の根を止められてしまった。同時に筆者もリタイアして、以後は民間の余暇研究者として気炎を吐いて?いるという次第である。
この2年余のコロナ禍は、われわれの生活にも大きな変化をもたらしている。日本人の余暇オンチにも新たな光が当たり、余暇生活の充実こそが人生の重大事であるという意識が広がることを期待している。筆者も80歳が目前という老トルになってしまったが、やがてどこかの大学に「総合レジャー学科」が誕生する日までは、余暇学を掘り下げながら生き延びたいと願っている。
#21 100年前の「レジャー白書」(2022年5月24日)
【つぶやき】
余暇に関するデータブックとしては、
日本生産性本部が毎年出している『レジャー白書』が有名で、
余暇市場の規模とか日本人のレジャー実態を数字で示してくれる。
ところで、今を去ること100年も以前に、昔版『レジャー白書』が出されていた。
大阪市社会部が大正12年(1923年)に調査した『余暇生活の研究』がそれである。
当時の大阪市は東洋一の商工業の中心地として発展途上にあり、
周辺の農村部を取り込んで急速に都市化が進んでいた。
人口200万人、東京の330万人と比べても遜色のない大都市だった。
そのころの「余暇」の王様は映画、当時の用語では活動写真、次いで寄席と芝居、
週に一度の休日には、道頓堀や千日前をはじめとする盛り場に多くの民衆が押しかけた。
こうした興行ばかりではない。日常の余暇もさまざまな楽しみが追求されていた。
江戸時代以来の伝統的な娯楽もあれば西洋伝来の「モダンな」楽しみもあった。
そのバラエティの豊かさは、現在の余暇状況にも負けないくらいだ。
「余暇生活」は近代化の道をひた走るこの国の重要なイシューであったのだ。
【解説】
大阪市社会部調査課が編集した『餘暇生活の研究』のデータを見てみよう。ちなみに余暇の「余」の字には、旧漢字では「食」へんが付いた「餘」という文字が使われていた。つまり「余り」というのはもともと食べ物の余りを意味していたからである。余裕があるというのは十分な食料をキープしていることだというわけだ。
この研究に収録されている興行統計を見ると、年間の入場者は活動写真(映画)が660万人、寄席(落語・講談、浄瑠璃、浪花節)が220万人、芝居が200万人となっている。合わせれば1080万人で、人口200万人とすれば、大阪市民は年に5回は何らかの興業にお金を払って参加しているということだ。これはなかなかの余暇熱心だというべきだろう。
これらの観客を受け入れる映画館や芝居小屋や演芸場場(この研究の用語でいえば「民衆娯楽場」)はどれくらいの数かというと、大正10年(1921年)現在で、芝居小屋16、活動写真35。寄席が69で合わせて126軒となる。同時期の東京は合計180軒、同じく京都(人口60万人)は43 軒で、人口比で言えば3都市ともそれほどの差異はない。それでも東京は活動写真館が比較的多く、京都は芝居小屋、大阪は寄席の数が割合に多いという指摘がある。映画の東京、芝居の京都、寄席の大阪というのは100年後にも通じる3都市の特徴とも言えるだろう。
100年前の「レジャー白書」は続いて「遊興施設」の調査に入る。当時の大阪には松島、新町、堀江など11カ所の「遊郭」があって「男たちの遊び」に対応していた。登録された芸妓(芸者)がおよそ1500人、娼妓(公認された娼婦)は7000人に達していて、娼妓1人当たり男子人101人という数字になるという。これは東京の269人、京都の153人に比べてダントツに低い。つまり大阪は娼妓の密度が東京の3倍近い歓楽の巷ということになる。公娼制度が廃止された現在、こうした統計は存在せず、比較のしようがないが、性にまつわる遊興がなくなったわけではもちろんない。その実態は果たしてどうなのだろうか。
余暇(レジャー)には、こうした快楽志向もある一方、文化的、健康的、創造的な余暇があることは当然である。この研究では、公園と運動場、動物園と植物園、博物館や市民館、図書館などの施設、講演会などの開催状況と入場者数の調査があり、さらには「宗教的余暇」として寺社やキリスト教会の分布や会衆の人数などを調べ、各地の祭りや縁日・夜店までその実態を把握しようとしている。その種類は膨大で参集する人々の数もそこで使われる金銭の額も遊興消費に負けてはいない。
この調査報告は子どもの遊びにも及んでいて、当時の小学生、中学生が、日常生活や休日にどんな余暇や遊び(今で言えばレクリエーション)を行っているか調べている。調査人数は多くはないが、遊びのバラエティはたいへん豊かで、活動写真もあれば動物園もあり、将棋や歌留多やトランプ、竹馬や自転車やハモニカや笛吹き、昆虫採集や釣りや紅葉狩りも出てくる。総論では子どもにとっては遊戯そのものが生活であり、社会に立ちゆくまでの準備行為として重要なことを説いている。その中で男児に比べて女児の遊びが貧弱で自由の束縛が多いことを指摘して、婦人の権利を拡張すべきことと結び付けているのは先進的だと言えよう。
労働問題や都市問題の専門家であった関一に率いられた当時の大阪の市政担当者は、都市政策の重要課題として「余暇」に注目する見識を持っていた。この視点は100年後の今日にも依然として重視されるべき課題である。カジノ誘致に狂奔する現在の大阪市のトップたちには、100年前の市政の精神を学び直して、もっと大きく深い視点を持って市民の「余暇生活」の充実策を考えてほしいものである。
#20 余暇の原点は子どもの遊び(2022年5月14日)
【つぶやき】
春の天気は変化が激しいが、良い天気に恵まれるとホントに気持ちいい。
公園に行くと緑の芝生の上で、子どもたちが嬉々として遊んでいる。
中でも目立つのは、若い母親、父親に連れられた、いたいけな幼児たちだ。
よちよち歩いてすっころんで、それでもニコニコと立ち上がり、また歩き出す。
小さな身体いっぱいに、動くこと、遊ぶことの喜びを表して飽きることがない。
子どもたちはそこから出発して、どんどん遊びの中身を豊かにしていく。
身体を動かす遊びはもちろん、心を豊かに、頭を耕すいろいろな遊びに挑戦する。
それは少年期、青年期を経て、成人になってからの余暇生活につながって行く。
余暇の原点は、まずは子ども時代の遊びをしっかり遊びつくすことにある。
だが、いま、子どもの遊びはピンチ、それも大ピンチだ。
今の子どもたちは、私たちが子どもだったころに比べると、ホントに遊べているのか疑わしい。
確かにおもちゃも運動具も自転車も、いろんなモノは持ってはいるが、
仲間を集めて、自由に、勝手に、好きなように、心ゆくまで遊べているのかというと、
どうもそうではなさそうだ、いや断じてそうではない。
子どもの遊びは大人の世界に囲い込まれ、その商売の道具にさせられているのではないか。
それは大人の余暇のあり方にもつながっている。
子どもの遊びこそが余暇の原点だからだ。
【解説】
第2次世界大戦で、今のロシアのプーチン以上に無謀な戦争に突入した日本は、多くの人命と国富を失い、敗戦の果てに焼け跡・闇市のみじめな生活を味わわされた。やっとの思いで復興を進め、1960年代からは経済の高度成長路線をひた走り、何度か躓きながらも今日の豊かな社会にたどり着いた…多くの方々は、押しも押されもせぬ経済大国となった日本の歩みを満足して受け止めているのだろう。
しかし、経済成長がもたらした「豊かさ」の陰で、人間らしい暮らしにとって大切なもの、かけがえのないものが失われていったことも事実である。わかりやすいところで言えば、幕末以来、日本を訪れた外国人が異口同音に称賛した美しい日本の自然が破壊され、広範囲に痛めつけられ、見る影もなくなったところも少なくない。同様に、外国人に感銘を与えた日本人の優しい心情も、この頃はずいぶんと怪しくなった。そして、見事に消えてなくなったのが地域の子どもたちの自由な遊びである。
1950年代の日本の子どもたち(筆者はまさにその一人だったが)は、どんな風に遊んでいたか。子どもたちは皆、地域の遊び集団に属していた。それは学校や大人が作ったクラブなどとは無縁で、子ども自身が毎日の遊びを通して作り上げたものだった。「ガキ大将」と呼ばれたリーダーに率いられ、年長の子から「みそっかす」と呼ばれた幼児たちに至るタテの関係で結ばれ、隣り町の子ども集団と「戦争」することもある強固な組織だった。子どもたちはそこで遊びの技術をみがき、集団行動における個人の役割を学んで「社会に生きる知恵」を知らず知らずに身に着けていった。
何よりも重要なのは、この子ども集団は大人の支配や管理が及ばない「おとなお断り」の子どもの自治共和国であったことだ。当時、貧しくて仕事に追い立てられていた大人たちは、その存在にほとんど気づかず、気づいても「たかが子どものすること」とみなして介入しようとはしなかった。農村には子どもが自由に遊びまわれる里山が広がっていたし、車社会を迎える以前の都市にも、空き地や原っぱや路地裏などの子どもの「領土」が豊富に残されていたのである。
高度成長は、子どもたちの「ガキ大将文化」や「路地裏文化」を解体し、裏通りにはどこにもあった貸本屋や駄菓子屋などの子ども専用施設を衰退させた。代わりに与えられたのがテレビやゲーム、高価なおもちゃ、大人が支配するスポーツクラブ、さまざまなお稽古教室、ゲームセンターや遊園地、TDLを代表とするレジャーランドである。子ども共和国は滅亡し、遊びというものは大人の管理下においてささやかに許される休憩時間になってしまった。
遊びを奪われた子どもたちが成人になって、主体的で豊かな余暇生活を構築できるとはとても思えない。そこで今日、何よりも必要なのは子どもの自由な遊びを回復するための社会運動である。そこでは子どもの遊びの「指導」ではなくて、子どもとともに遊ぶ「支援」が求められる。
日本余暇会はこのほど、子どもの遊ぶ権利確立のための遊びの支援活動の手引書として『プレイワーク入門』を編集・出版した。Amazonのオンデマンド出版なので、下記のURLをクリックすれば内容をチェックできるし、ワンクリックで購入もできる。ぜひ、この本をお読みいただいて、余暇の原点である子どもの遊びへの関心を深めてほしいと願っている。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4991147425
#19 こま切れ余暇からまとまり余暇へ(2022年5月4日)
【つぶやき】
時はいま、5月の大連休の真っただ中、
昨年も一昨年もコロナで身動きがとれなかったゴーデン・ウィークが3年ぶりによみがえって、
コロナの怖れは払拭されてはいないものの、観光地はどこもそこそこの賑わいのようだ。
週休2日制さえ、完全に定着しているわけではない余暇貧国ニッポンでは
連休というと、それだけで何となく嬉しい気持ちになるが、
憲法記念日 — みどりの日 — 子どもの日と続く押しも押されもしない3連休は
新緑の美しい5月の気候とも相まってお祭り気分を味わわせてくれる。
多くの勤労者は休日と休日に挟まれた平日は休日という「オセロゲーム」みたいな発想で
有給休暇を申請して10連休を作りだし、ちょっとしたバカンス気分も味わう人もいる。
そこでしみじみ感じることは、余暇というのつながって長いところに価値がある、
半日とか1日ぐらいの余暇は、余暇の断片に過ぎないということだ。
余暇は長く繋がってこそ価値があるのだ。
【解説】
そもそも余暇というのは、どれくらいの長さがあれば「余暇」という名に値するのだろうか。仕事の隙間に生まれた1時間や2時間の空白、たまたま得られた半日ぐらいのヒマ時間、それらも確かに余暇でないとは言えないが、偶発的で受け身なものにならざるを得ないので、目的意識を持って何か特別なことをするというわけにはいかない。ぼんやり休憩してコーヒーでも飲むか、パチンコ屋に飛び込んで一時の気晴らしをするぐらいが関の山だろう。
休みになっても本務である仕事のことを簡単に忘れることは難しい。1日、2日はまだまだ仕事の呪縛の中にある。連休3日目ぐらいになってやっと少し仕事離れの気分になり、4日目になってやっと仕事を忘れることができる―だからこそ4日目を「よっか―余暇」というのである―というのはあんまり上等でないことば遊びだが、ともあれ、余暇の存在感はそれがある程度の長さで持続していることによって初めて実感できることは確かである。5月の連休は、国民的な規模で「余暇感」を味わうことのできる貴重な機会の一つである(あとは正月と夏休み)。
日本人の余暇時間は全体的に少ない。それはよく指摘される事実だが、もう一つ指摘されるべきは、それが短く分断されていることである。1日の仕事を終わって次の日の仕事を始めるまで、ILO(国際労働機関)の規定では11時間のインターバル時間を置かなくてはならないとされているのに、日本の労働法はその規定さえなかったのがやっと定めができたものの、それは努力義務に過ぎなくて8~12時間という幅があり、実際の所、規定があっても8~9時間が多いのが現実である。前日夜中の12時まで働いた人は、次の日は午前11時以降に出勤すればいい(それくらいは連続して休まないと健康を害する)というのが国際標準なのに、わが方は真夜中まで働いても、次の朝、午前9時には出社しなくてはならないのだ。過労死を生む遠因は、こうした余暇の持続時間の短さにもあることを知るべきである。
休暇に関して言えば、おおかたの日本の勤労者の余暇は、結局のところ細分された「切り身」に過ぎない。大きな魚をいくつにも切り分けたその1片を味わっているだけで、頭もシッポも付いた余暇の「尾頭付き」をついぞ味わったことはないのである。西欧人の夏のバカンスを見ると、4週間は当たり前で北欧のように6週間の連続した休暇が定着している国もある。これくらいの長さがあれば、余暇は仕事と同等の存在感を持つようになり、仕事とは別種の価値観やライフスタイルを実践できる重要なフィールドとなるのである。その体験が仕事も含めた人生全体の活性化に役立つことは言うまでもないだろう。
5月の大連休は、余暇ビンボーな日本人が、余暇の切り身ではない、アジの干物ぐらいの小さな魚でも一応は尾頭付きの余暇を味わうチャンスである。余暇がまとまって何日も持続することの気分をじっくりと体得したい。そのためには今日はショッピングモール、明日はディズニーランドというようにちょこまかと動き回るのではなく、わが住むコミュニティの春の風景を愛でながら、家族や友人とのんびり「まとまり余暇」の醍醐味を楽しんでみたいものである。
#18 田舎の余暇と町の余暇(2022年4月24日)
【つぶやき】
イソップ物語の中に「田舎のネズミと町のネズミ」というお話がある。
大要はこんなストーリーである。
田舎のネズミが仲のよい町のネズミを自分の住まいに招待した。
畑の中で麦やトウモロコシや大根をふるまったのだが、
町のネズミは、これをバカにして、自分の所に来ればもっとすごいご馳走があると
田舎のネズミを町に呼んだ。
町のネズミの住まいに行くと、確かに食卓にたくさん食べ物が並んでいる。
喜んで食べ始めると、そこに人間が入って来て、2匹は慌てて逃げだす。
様子を見てまたご馳走にありつこうとすると、またまた人が入って来る。
隙を見て、あたりを警戒しながら食べるので、気が休まることがない。
田舎のネズミは言った。
「ご馳走はあってもこんなに危険なのはごめんだ。
僕は、田舎の畑でのんびり食べているのが性に合っている。
今日はありがとう、さようなら」
このお話は、現代人の「余暇」にも当てはまるのではないだろうか。
【解説】
ひと昔前の余暇のイメージは「田舎の余暇」だった。暇ができたら自然豊かな田舎へ行って、日がな一日のんびり過ごす。山を眺め、川を渡り、野原で休んで一息入れる。食べ物は土地の人が楽しんでいる郷土料理、地酒の1杯も飲めたら言うことはない。夜は素朴な温泉に浸かって、あとはゆっくり眠ろう…。
余暇は田舎で過ごすというのが当たり前のことだったので、正月とお盆の休みには「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」のある故郷に帰省するのが一般的だった。毎日忙しく立ち働いている町のネズミたちは、休みとなればお土産を持って懐かしい田舎に帰り、老いた母ネズミや父ネズミとの再会を喜び、子ネズミたちは、せせこましい都会の環境から解放されて、田舎の山と川を舞台に、一日いっぱい遊び暮らすというのが日本のバカンスの原型だった。
しかし、社会の発展(ほんとに発展なのかは考え直してみる価値があるが)とともに、余暇は次第に「町の余暇」の色彩を濃くしていく。休みとなれば町にしかない余暇施設―かっこよく言えばレジャーランド―に出かけるのが望まれる余暇になって行く。都心のデパート詣でに始まり、映画館から遊園地、動物園、水族館―それらの施設はそれぞれ次第に巨大化して、ついにはディズニーランドが出現する。ディズニーランドこそは夢の国、究極の余暇のあり処になって行く。子どもたちから若者たち、それより上の世代にまでDLに魅せられる人々が増えて行き、年間の入場回数を競う合う風潮さえ生まれている。ディズニーに比べたら田舎なんてつまらない、何の価値もないという町のネズミが増えて、田舎は年寄りネズミの収容所のようにさえなってきた。
けれども、ここでもう一度考え直してみたい。町の余暇には本当の余暇の喜びはあるのだろうか。確かに感覚を楽しませてくれる刺激は尽きることなく提供される。多種多様な快楽を次々と味わうことができ、この世の憂さを忘れさせてくれる。とはいえ、それは一時のこと、遊園地から一歩外へ出れば、夢の国は失われて、すべてが幻想であったことを思い知らされる。身も心もがっくり疲れて、トボトボをと家路を急ぐ…町の余暇の結末はそんなところではないのか。
幸か不幸か、コロナ禍によってさまざまな「町の余暇」に制約がかかった。人の集まるところに行って はならないという規制のもとで、盛り場も遊園地も動物園も空っぽになってしまった。人々の余暇を吸収し、凝縮し、1つの巨大な余暇空間にまとめ上げる装置が運行を停止した。余暇は拡散して、一人一人のもとに帰って来た。改めて自分の余暇を見直さないわけにはいかなくなったのだ。
そうした状況の下で、忘れかけられた「田舎の余暇」への思いが再び芽を吹いてきていることを感じる。集中し、巨大化し、幻想を生み出す余暇ではなく、拡散し、個人化し、生きることの原点に帰ることのできる「静かな余暇」への志向が高まってきていると思われる。田舎のネズミたちが声を高くして町のネズミたちに呼びかける日が来ているのである。
#17 誕生日はわが余暇の日(2022年4月14日)
【つぶやき】
本日4月14日という日は、世間的には、別段なんということもない日ではあるが、本欄としては特別な日なのである。 すなわち、本欄の筆者、余暇人碩翁が生まれた日である。
今回の碩翁の誕生日は、生まれたその日を1回目として数えると 実に80回目という節目の日になる。 昔の「数え年」の習慣からすれば、めでたく傘寿を迎えた誕生日ということになる。
誕生日は、社会のではなく個人の祝日である。
天皇さんやお釈迦さまやキリストならば、個人の誕生日が国の祝日にもなるのだが、フツーの人の誕生日は、家族や友人が祝ってくれるだけのことだ。
それでも誕生日は、その人の原点の日として大切なものである。
そして余暇の原点も誕生日にある。
【解説】
Facebookは皆さんご承知の通り誕生日がお好きで、「今日は誰之誰兵衛(または誰之誰子)さんの誕生日です」とわざわざ教えてくれる。ふだんはあまりやり取りのない人でも、誕生日と聞くと懐かしくなったりして、「おめでとう、元気ですか」と書き送って旧交を温めることもしばしばだ。
欧米ではキリスト教の最大の祝日がイエスの誕生を祝うクリスマスだから、それに倣って個人の誕生日を祝うことも自然に行われたと思われるが、日本では誕生日を祝う習慣はなかった。(しかし、お釈迦様の誕生日の4月8日だけは、花まつりとして祝われてきたのだが、日本人のほとんどが仏教徒のはずなのに、あんまり盛り上がらないのはなぜだろう)。
それというのは、かつての日本での歳の数え方が、生まれて1歳、あとはお正月が来るたびに1つ歳を加えるという「数え年」の習慣だったから、正月祝いが全国民の誕生祝でもあったわけだ。戦後になって年齢を満年齢で数えるという法律ができて改めて個人の誕生日が意識されるようになったのである。最近のように、デコレーションケーキに歳の数だけローソクを立てて、祝われる人が一息で吹き消すなんてことは、サンタクロースと共にアメリカから輸入された新風俗に過ぎない。
ついでに言えば、誕生日には欠かせない「ハッピーバースディ トゥーユー」の歌だが、あれはもともとアメリカの幼稚園で、毎朝子どもたちと一緒に歌われていた「グッドモーニング トゥーユー」の替え歌である。誰かが思いついてこの歌を誕生日用に改造したのが広まったということだ。
それでも何でも誕生日はおめでたい。それはその人のこの世の時間が始まった日なのだから。そしてそれは自由な余暇の時間として始まったのである。決して拘束された義務の時間として始まったのではない。この先、与えられた自由をわが思うように目いっぱい生かして、ただ一度きりの人生を楽しく、面白く、豊かに生きて行くための出発点の日なのである。年に一度、その原点に立ち帰って、改めてわが人生の自由と可能性を確認する祝日である。
碩翁もまた、80回目の原点回帰を果たし、わが余暇にさらなる磨きをかけて行きたいと念じている。
#16 長屋の花見を取り戻そう(2022年4月4日)
【つぶやき】
東京の周辺はいまや桜の満開の時期、
上野公園、千鳥ヶ淵、隅田川の河畔など桜の名所は
多くの花見客であふれている。
とはいえ、執拗に続くコロナ禍のもとでは、
かつてはどこの桜の下でも常態だった飲めや歌えのどんちゃん騒ぎは影を潜め、
ビニールシートを広げ輪になって座っているグループはそこここにいるものの
至っておしとやかに、缶ビールをつつましく飲んでいるだけだ。
それでもやはり春は花見である。
連句の世界では、花と言えば桜に限るという約束があり、
花びら、花房、花の香、花筏、花明り、花の雲…
これがみんな桜のそれぞれを意味している。
桜は余暇のシンボルである。
春の青空をバックにあでやかに咲き誇る桜は、
眺める人々のこころを癒し、友との交わりを祝福し、
自由にのんびりと酒を飲み、手作り料理を味わい、
平和と交流の喜びを与えてくれる最高級の余暇である。
【解説】
日本人が愛した花は、奈良時代には桜よりも「梅」だった。梅は中国から輸入された貴重な植物で(梅の中国音メイがなまってウメになった)、花も美しいが実も薬用にされ、貴族の愛した花だった。『万葉集』に出てくる花の歌を点検してみると、桜の40首に対して梅は100首以上もある。
それが平安時代になると桜の人気が高まり、『古今和歌集』では、桜が梅を圧倒するようになった。
その中に、「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という在原業平の歌があるが、 桜があるからこそ、春は盛り上がる。
もし桜がないとすると、えらくのんびりして退屈だろうというわけで、桜愛好が花の趣味の王座の位置を占めるようになるのである。
大掛かりな花見としては、天下人になった豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」がよく知られている。
これは桜を見るばかりでなく、茶屋を仕立てて茶をふるまい、操り人形などの見世物を配して大衆に開放し、多くの見物客を集めてたいそう賑やかに行われた。
後世の花見の大宴会はここに始まると言っていい。江戸時代になると、花見は庶民の娯楽として広がり、「花より団子」の春の宴として定着していく。
8代将軍吉宗は、手狭になった江戸市中を離れた、当時の郊外にあたる飛鳥山に多くの桜の木を植えて江戸庶民に開放した。
下町の八つぁんも熊さんも酒の徳利につまみの何品かを用意して、いそいそ出かけたものである。落語で知られた「長屋の花見」の始まりである。
日本人の余暇生活にとって必須のアイテムだった花見も、コロナの攻勢の前には自粛せざるを得なかった。
昨年も一昨年も花見の宴は取り締まりの対象になってしまい、それでも桜の好きな人たちは三々五々、前後に十分な間隔を開けて粛々と花の道を歩いていくしかなかった。
放歌高吟はもとより、路上に座り込んで酒を飲むなどもってのほかになってしまい、一人で見る桜も悪くはない、と強がりを言いつつ、はらはらと散りかかる桜の花びらに「もののあわれ」を感じたりしていたのだった・・・。
今年はそれでも地域の花の宴が少しは戻ってきているようだ。
都心の名所に押しかけなくても、ご近所に桜が楽しめるところは少なくない。
桜好きのわれわれは、学校の校庭をはじめ、公園だの並木道だの川の土手だの、あちこちに桜を植えてきた。
それらの桜は毎年忠実にみごとな花を咲き広げ、ゆっくり見る暇もないほど慌ただしく、春の風に乗って散っていってしまう。
時は今、かけがえのない桜週間である。是非ともご近所を語らって桜探訪に出かけよう。長屋の花見を復活させて、コミュニティの余暇再建の道を探ろう。
(参考:日本レクリエーション協会監修『遊びの大事典』、「花見」の項
#15 余暇は戦争を止められるか(2022年3月24日)
【つぶやき】
2月24日の「よか」の日に突如始まったロシアによるウクライナへの侵略、
プーチンの野望に発した無謀・理不尽・残虐な戦争は1か月たっても終わらない。
世界中の世論がこの戦争に反対して、ロシアの非を訴え、
ロシアに対する経済制裁も始動しているが、
独裁者プーチンは国内にもある反戦の声を抑え込んでミサイルを撃ち続ける。
毎日毎日、罪のない市民たち、女性や子どもの屍が積み上げられていく。
余暇などというものは戦争の前にはいかにも無力だ。
この厳しい状況を前にして余暇を語ること自体が
無意味どころか非難の的になるかもしれない。
それでも我々は主張したい、
余暇こそ平和の礎なのだと。
【解説】
プーチンが戦争を始めた動機は、かつてのソ連時代の偉大なるロシアを回復することにあると言われている。
旧ソ連崩壊後、勢力圏だった東欧諸国が自律性を回復し、経済的に豊かな西側諸国への親近感を高め、EUに加盟したり、その軍事組織であるNATOへの加入を進めたりしてきた。
ポーランドやチェコまではまだ我慢のうちだが、ほとんど兄弟のように考えてきたウクライナまでが西になびくのは許しがたいというのがプーチンの理屈なのだろう。
戦争を引き起こすのは個々の市民ではない、必ず国家である。
国家という、この途方もない存在は、交戦権なるものを持っていると勝手に主張して、目障りな相手にロケット弾を撃ち込むことを国家の権利だと言う。
プーチンのような独裁者は、国家を自分の思うままに動かして、多くの平和的なロシア国民の願いを無視し、弾圧して国家の名を騙っておのれの戦争を始めたのだ。
大国が何千発もの核弾頭を貯蔵している今日、全面戦争は確実に人類の滅亡をもたらす。
戦争はもはや不可能なのだ。その戦争を永久に抑え込むためには、戦争を始めかねない危険極まりない存在である国家に何らかの歯止めをかけること、将来的には国家自体を廃絶することを目指さなくてはならない。
その点、国の交戦権を否定する日本の憲法第9条は、人類の手本となる先進的な憲法である。
これを改正して外国に向けてミサイルを撃ちたいとか核兵器を持ちたいとかいう輩は、プーチン同様、今日の戦争の真の帰結を想像することのできない幼稚な野蛮人に過ぎない。
国家を作る力は労働にある。国民が一生懸命に働くから国家が成り立つのである。反対に国家を解体するのは余暇である。
みんながのんびり余暇に入ってしまえば、生産は停滞するだろうが、少なくとも、他の国へ押し込んで人殺しをしようなどという思いは生まれてこないはずである。
江戸時代、徳川幕府の260年は天下泰平の平和な時代だった。同時期のヨーロッパが戦乱に明け暮れる中で、対外戦争は絶えてなく、国内の戦乱も小さな百姓一揆ぐらいしか起きず、武士の鎧兜は無用の長物、刀は差してもめったに抜くこともなく、武士は武芸よりも遊芸を好み、要らなくなった鉄砲の火薬は転用されて花火になった。夏の隅田川の夜空を彩った大玉の輝きはまさしく平和の象徴だった。
町人たちは歌舞音曲を嗜み、銘酒と料理を楽しみ、相撲を取ったり射的で遊んだり、長い休みには弥次喜多道中の大旅行に出かけた。
多彩な江戸の余暇文化は、戦争のない平和な世なればこそ可能だったのである。
余暇は平和の土台である。余暇を大切にすることは平和を確かなものにするために不可欠の課題である。
ウクライナに攻め込んだロシアの兵士たちよ、同胞を殺戮するような野蛮な仕事は放棄しよう。
今すぐ銃を捨て、余暇を取り戻して故郷に帰ろう。
ロシアの春はもうすぐそこまで来ているのだ。
#14 余暇を主題に社会運動(2022年3月14日)
【つぶやき】
世の中にはいろいろな「運動」がある。
運動会とか運動選手とか背筋運動のような運動、
これは英語でいえばエクササイズのこと。
他方、選挙運動とか労働運動とか赤い羽根募金運動なんて言うのもある。
これは筋肉を動かすのではなく、世の中を動かそうという運動である。
英語でいえばムーブメントということになる。
さて、余暇と縁のある運動はどちらだろうか。
ヒマがあるので、ちょっと外へ出て一運動してこよう…というのはよくある話。
余暇はさまざまなエクササイズに活用されている。
しかし、それだけではない。
余暇をテーマにした社会運動も立派に存在している。
余暇を社会問題の一つとして捉え、
余暇を追求して世の中を変えようという余暇ムーブメントに注目してみたい。
【解説】
社会運動は、何らかの「問題」のあるところに生まれる。ロシアがウクライナに突然攻め込む。これはとんでもない大問題だ。人間同士が殺し合って何の意味があるのだ、平和こそ世界中の人々の願いである、平和の実現を!!と訴えるのは平和運動だ。
人間にとって大切な木々の緑や清流や美しい浜辺が汚され、破壊され、失われる―これを何とかしたい、自然を大切にし、豊かな自然を取り戻すことが現代社会の課題だ、と訴えるのは自然保護運動だ。 貧困にあえぐ人たちの救済を目指す社会福祉運動、元気で賢い子を育てようという教育運動、悩める人々の魂の救済を志す宗教運動……問題のあるところ運動あり、と言ってもいいだろう。
この欄で毎度申し上げているように、われらが日本人の(特に働く人の)余暇は貧しい。欧米に比べてめちゃ長い労働時間、土曜日曜の休みさえ完全ではなく、長期休暇に至っては、欧米人に言うのも恥ずかしい位のみみっちい休みしか取れていない。これが問題でなくてなんだろう。当然、余暇の充実のための啓蒙運動、余暇制度の整備のための政治運動が生まれて当然である。このページを主宰する「日本余暇会」は、余暇の拡大・深化を目指す運動体に他ならない。
ここで押さえておきたいことは、余暇拡大運動のいちばんの当事者は「労働組合」であることだ。欧米の勤労者が持っている充実した休暇制度は、あちらの労働運動が長い戦いの末に獲得した成果なのである。その点、日本の労働運動は、どうも余暇問題、休暇制度への取り組みが弱いと言わざるを得ない。
労働運動というのは「労働をしましょう!」という運動ではないのだ。逆に「労働をしません!」という運動であるはずだ。理不尽な、非人間的な、反社会的な労働は断固拒否します、合理的で人間的で社会の役に立つような労働を目指して、資本家・経営者に対抗しますというのが労働運動の役割である。だからこそ、労働組合には労働することを拒否して戦う権利―「スト権」というものが法的にも認められているのである。
日本の労働組合が大同団結して1989年に「連合」(日本労働組合総連合会)を作った折りには、残業の削減や週休2日制の普及や長期休暇の拡大がスローガンとして正面に掲げられていたのに、大した成果も出せないまま、最近はこの手の要求があんまり前に出てこないように思われる。しっかりしてくださいよ連合さん、連合こそが余暇運動の旗頭になって当然だということを是非ともお忘れなく願います。
#13 余暇の三段階 - 休息・気晴らし・自己開発(2022年3月4日)
【つぶやき】
余暇と言ってもいろいろな余暇がある。
ぼんやりしたりのんびりしたりのお手軽な余暇から、
散歩や体操や読書や音楽鑑賞のような日常の余暇、
さらに、お金と時間をかけて旅行に出るような大掛かりな余暇もある。
フランスの社会学者ジョフル・デュマズディエは、
これらの余暇を、それに費やす人間的エネルギーに注目して
休息―気晴らし―自己開発の3つの段階に仕分けしている。
余暇はまず、忙しい仕事から逃れて、ゆっくりと骨休みをする時間であり、
元気が戻ってきたら、あれこれ楽しい気晴らしに時を過ごし、
さらに気力が充実すれば、自分なりに新たな目標を設定して
自分の可能性を追求する時間にもなるというわけだ。
【解説】
フランス人のデュマズディエは、当然フランス語で書いているので、余暇の3段階を3つのD(デ)で表している。
- 休息は Délassement デラスマン
- 気晴らしは Divertissement ディベルティスマン
- 自己開発は Développement デヴェロプマン
デラスマンは「休息する」という意味の動詞デラセdélasserの名詞形。語感からすると、日本語の「でれっとする」という言葉に似ていてちょっと面白い。
ディベルティスマンは動詞ディベルティールdivertirの名詞形だが、この語のもともとの意味は、他に転じる、そらすということ。注意をそらす、悲しみを他に転じて紛らせることから、人を慰める、面白がらす、喜ばす、つまるところ「気晴らし」ということになる。
デヴェロプマンのもとのデヴェロッペdévelopperは、畳んだものを広げる、巻いた綱を解く、腕を伸ばす、という意味(その反対のアンヴェロッペenvelopperは「包む」。英語envelope封筒はここから来ている)。そこから身体が成長したり、能力が発揮されたり拡張したりすることを指すようになった。余暇の自由な活動を通じて、自分の中に畳み込まれていた思いや能力が外に出てきて、自己が開発されるというわけである。
この3つのDは、前のものが次のものの前提になっている。休息が十分にあってこそ、体と心の元気が回復されて、いろいろな気晴らしに向かうことができるのだし、あちらこちらに目を向けて面白がってこそ、自分の内に秘められた関心や能力が目覚めてくるのである。過労死日本のように、休息も十分取れないような国では、気晴らしも断片的、刹那的、受け身的なものにならざるを得ないし、そこから開かれて来る自己も、あんまり大した自己ではなくなってしまう。
そういうわけでフランスは、デラスマンの休息の余暇を生活に欠かせないものとして重視してきた。それは1か月に及ぶ長いバカンスを早くから制度化してきたことに現れている。十分な休息と多彩な気晴らし活動、それによって一人一人の個性が輝きを増す。フランス人の方が日本人よりも個性的に見えるとしたら、それはバカンスの効用だと言ってもいいのではないか。
#12 わが国最初の余暇の本(2022年2月24日)
【つぶやき】
日本で最初に余暇をテーマにして書かれた本をご存じだろうか。
それも今日や昨日ではない、遠い昔の鎌倉―室町時代、
当時の知識人が書き残した「余暇」の本、
あなたはその本の名が思い浮かぶだろうか。
答えを言おう、
それは吉田兼好の『徒然草』―つれづれ草、
つれづれなるままに...で始まるあの本だ。
『徒然草』が何故に余暇の本か、
それはこの著者が「暇で退屈している」ことを大切な拠り所として
この本を書いているからである。
【解説】
「徒然草」の冒頭は次のように始まる。
つれづれなるままに、日くらし、硯(すずり)にむかひて、
心に移りゆくよしなし事を、
そこはかとなく書きつくれば
あやしうこそものぐるほしけれ。
この有名な一節を現代風に、少しくだけた言い方で書き直してみると、
毎日することもなくて退屈なんで、一日中、パソコンに向かって
心に浮かぶ取り留めもないことを
あれやこれやと書き散らしていると
何ともあほらしくなってくることだなあ。
...とまあ、こんな感じになる。
あほらしく=物狂おしくなってくると兼好法師は言いはするが、それは一種の反語である。作者は書くことを無意味だと思ってはいないし(ほんとにそうなら、合わせて243段も書き続けるはずがない)、実は書くことを心から楽しんでいる。「徒然草」は、今でいうエッセイ集に当たるが、取り上げられているのは、生真面目なお説教ばかりではない。どこのだれがどうしたという、退屈しのぎの世間話がいろいろ出てくる。坊さんが戯れに壺の中に頭を突っ込んだら抜けなくなり、壺を割ろうとしても割れず、むやみに叩くとガンガン響いて耐え難く途方に暮れる話(第53段)のような、それこそアホな話があるかと思えば、よい友だちには3種ある、1つは物をくれる友だち、2番目は医者、3番目は知恵のある奴(第147段)という指摘があって「なるほど」と思わせてくれる。現代でも十分参考になるコメントであろう。
作者の兼好法師は、出家はしていても寺院に入って修行生活をしたわけではなく、頭を剃って坊さんの格好はしているが、普通に日常生活を送って過ごしている。お酒も嫌いではないようで「下戸ならぬこそ、男はよけれ」と断じている(第1段)。官職は辞して「遁世者=世捨て人」ということになっているが、あれこれの本を読み、和歌を創り、気の合った友と語り合い、世の人のふるまいを批評し、気の利いた警句も吐いている。その生活を支えていたのは、京都の山科の辺りに所有していた水田1町歩であったらしい。今風に言えば、退職して年金暮らし、暇を生かしてあれこれの文化サークルに属し、エッセイを書き散らして楽しんでいた「余暇人」だということになる。
兼好法師の余暇観は、第38段の冒頭に明快に述べられている。
名利に使われて、閑(しず)かなる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
「地位や利益に振り回されて、余暇を顧みず、楽しくもない生活をするなんて愚の骨頂。」
これこそ、兼好さんが私たちに送ってくれているメッセージと言うべきだろう。
「徒然草」を余暇の本としてもっともっと読み込んでみたいと思っている。
#11 江戸時代には過労死はなかった(2022年2月14日)
【つぶやき】
日本人の「過労死」はつとに世界的に有名で
働き過ぎて死ぬ人が後を絶たない。
KAROSHIという用語は英語の辞書にも登録されている。
(2002年 オックスフォード英語辞典に載ったのが最初)
でも、日本人はもともとそんなに「働き過ぎ」ではなかった。
それは近代以後、特に大正期辺りから今日まで続く習慣(というより悪習)で
たかだか100年ぐらいの「伝統」に過ぎない。
それも「過労死」となると、バブルがはじけて
失われた10年、20年と言われた平成期に目立ってきた現象だ。
そこで少しばかり歴史を巻き戻してみよう。
かの江戸時代に「過労」で死んだ人がいたのだろうか。
徳川300年の泰平の時代、貧しくとも平和な時代に
人々はもっとのどかな働き方をしていたように思われる。
【解説】
1602年に徳川家康が江戸に幕府を開いて戦国時代は終わり、1614~15年の大阪冬の陣・夏の陣で豊臣家が滅びて以来、幕末まで250年ほど、百姓一揆の小競り合いはあったにせよ、日本には内戦というものがなかった。同じころ、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントの血で血を洗う宗教戦争、それが一応収まった後は国民国家同士の領土争いの戦争が絶えることなく続いていた。
徳川幕府は対外関係には慎重で、外国との往来を禁じ、国同士の交易もできるだけ抑え―とは言ってもゼロにしたわけではなく、長崎を中国とオランダに開き、対馬藩は朝鮮との外交関係を持ち、薩摩藩は琉球と密貿易をして儲け、松前藩は蝦夷(北海道)を経由して大陸との交易ルートを維持していた。「鎖国」というのは言いがかりで、国を閉じたわけではなく、細々ながら窓を開けておいて、それ以上、隣国へ侵略したり対外戦争をしたりすることはなかった。言うならば模範的な平和国家だった。
戦争のない時代、経済は次第に発展し、江戸をはじめ京都や大阪の大都市には周辺の農村から多くの人が集まった。江戸の人口は膨れ上がり、江戸時代後期には100万人に達し、当時のロンドンを凌駕した。参勤交代の武士が暮らす一大消費都市江戸には、農村から流れ込んだ人たちを養うに足るだけの仕事が生まれた。庶民はだいたいのところ、暮らしを維持できる程度に働き、あとはできるだけ生活を楽しむことに時間を使った。職人たちは、自分たちの作品作りに精魂込めて打ち込んだが、決して働きづめに働きはしなかった。疲れがたまると勝手に仕事を放りだし、仲間を誘って吉原へ繰り出す.....というような気ままな働きぶりだった。これでは過労死などするはずがない。
幕末に日本を訪れたオールコック(イギリスの外交官、『大君の都』という日本紹介の本を書いた)は、日本の庶民について「生活とか労働をたいへんのんきに考えていて、適度に働き、簡素だがゆとりと自主性のある生活をしている」と記している。労働は生活するためには必須の活動に違いないが、それは決して生活の目的ではなく、楽しく生きることこそが目的なのであった。こういう人たちが過労死するわけはない。
ただし、農村ではたびたび不作のための飢饉に襲われ、時には窮乏して餓死する人もあったことは事実である。しかし、餓死はしても過労死はしなかった。農村の働きぶりもそれなりにのどかなものだった。江戸期にはもはや農奴(農業奴隷)は存在せず、自作農が増え、小作農も順調に作物ができればそれなりに食べていけたし、窮したら都市へ逃げる手もあった。
現代日本人が「過労死大国」の汚名を返上するためには、いま一度、江戸時代の暮らしや価値観を見直してみる必要があるのではなかろうか。
(参考:渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社、2005年)
#10 日本人は世界一の余暇貧乏(2022年2月4日)
【つぶやき】
日本は「お金持ち」の大国である。
経済の規模で言えばアメリカ、中国に次いで世界第3位。
一人当たり国民総所得でも、大国ではアメリカ、ドイツ、オーストラリアなどと肩をならべ、日本は「お金持ち」の大国である。
経済の規模で言えばアメリカ、中国に次いで世界第3位。
一人当たり国民総所得でも、大国ではアメリカ、ドイツ、オーストラリアなどと肩をならべ、
1人38,000ドルで、中国の8,700ドル、エジプトの3,000ドルのはるか上を行く。
(因みにアフリカのコンゴ民主国は460ドルしかない、このおそるべき格差。)
だが、目をお金の豊かさから「時間の豊かさ」に移してみると、
何とも情けないビンボー国であることが見えてしまう。
そもそも労働時間が長く、大国の中では断トツの労働大国である。
残業は野放しで、「過労死」する人が後を絶たない。
週休2日制は発展途上、長期休暇に至っては、
欧米の半分にも届かない最貧国を誇って?いる。
どうしてこんなんことになったのだろう。
【解説】
日本が世界第3位の経済規模を持つ大国であることは確かだが、しかし、それは深刻な凋落の段階にあることを押さえておく必要がある。平成の始まりのころの日本は、アメリカに次ぐ第2位で、世界経済の16%を占めていた。こんなちっぽけな、人口から見れば世界の2%ぐらいで、それだけの実力があったのだが、平成が終わって令和になってみたら、躍進著しいお隣りの中国に抜かれ、その数字はわずか6%まで低下している。
さらに言えば、平成元年の日本企業の「時価総額」を見てみると、NTTが1,638億ドルで世界トップ、50位までの間に32社が入っていた。それが何と平成の終わりには、トヨタ自動車1社のみがやっと34位に名を連ねているだけなのだ。トップ3は言わずと知れたアメリカのアップル、マイクロソフト、アマゾンの3社である。落ちれば落ちたもので何とも悲しくなる。
経済大国が揺らいでいる中で、余暇貧国ぶりはさっぱり改善されていない。日本人の長時間労働は世界的に有名で、働き過ぎて過労で死んでしまう日本特有の現象として、アメリカのウェブスター大辞典に‘karoshi’という用語が登録されているほどである。一週間に49時間を超える長時間労働をこなした人の比率は日本が際立って高く、2005年には40%近かった。その後は漸減して現在は27%ほどである。アメリカは24%程度でちょっと長いが、ヨーロッパでは2割を超える国はなく、北欧の国々になると7~8%というところ。ヨーロッパでは例外的な残業が日本人では常態化しているのだ。
週末の休みも少ない。土日休みというのは今や世界の常識だが、日本では土日がみんな休みになる完全週休二日制は、1995年には40%しかなかったのが2020年には58%まで広がった。これに隔週2日休みや月1回2日休みを加えても勤労者の7割に届かない。土日のデートもままならないのでは、若い世代のカップル作りも難しく、出生率が下がるのも無理はない。
長期休暇となるともっと悲惨だ。フランスやドイツでは有給休暇は4週間、家族そろってバカンスに出かけるのが当たり前。太陽の恵みの少ない北欧になると、夏に6週間もの長期休暇を取って南の国に赴いたりしている。それに比べてわが方はやっと平均18日程度の有給休暇が与えられているが、それだって欧米に比べて短いにもかかわらず、その半分が放棄されている。有給休暇消化率は50%の辺りで長年停滞していて一向に上がる気配がない。日本の家族がどうもぎくしゃくしているのは、休暇を取って家族でしっかり関り合う時間が少ないせいではないかと思えてくる。
昔から「時は金なり」というように、時間こそ究極の財産である。時間を、特に余暇を豊かにデザインできない人は、幸福な人生を送ることは不可能である。いくらお金を貯めてもあの世には持っていけないが、余暇は精神の糧となって、あの世にもつながっているのである。
#09 仕事が先か余暇が先か(2022年1月24日)
【つぶやき】
世間の常識からいうと、
余暇というのは仕事が終わった後の余りのヒマということになっている。
つまりは仕事がまずあって、その後に余暇がついてくる。
仕事が主人で、余暇はそれに付き従う従者、あるいは僕(しもべ)だということになる。
しかし、すべてのことがらは逆の見方があるはずだ。
余暇がまずあって、余暇を終えたその後に仕事をする、
つまりは余暇が主人で、仕事が従者という見方だってできなくはない。
これは荒唐無稽(こうとうむけい。デタラメを難しく言うとこうなる。)な話だろうか。
【解説】
ビジネス用語で「ネゴシエーション」という言葉がある。交渉とか折衝という意味の英語だが、ビジネスの現場で営業担当者が顧客と商談を進めることを表す用語で、ビジネスマンなら「ネゴ力」のあるなしが決定的に重要であることは言うまでもない。
この言葉の来歴を当たってみよう。‘negotiation’という言葉を分解すると、neg-と-otiationに分けられる。neg- というのは否定辞で、「ノー=ない」ということ、後半はラテン語のotiumを起源とする言葉で、オチウム、すなわち「余暇」である。つまりネゴシエーションは「ノー余暇」、余暇がありませんということなのだ。余暇をあきらめて真剣に交渉するのがビジネスマンの心意気。かくして今日もオフィスや道端や喫茶店やレストランや飲み処を会場に多種多様なネゴシエーションが繰り広げられているのである。
ネゴシエーションという言葉が生まれてきた背景あるいは無意識を探って見ると、真剣な仕事というのは、余暇の否定、あるいは余暇の放棄であるという考え方が浮かび上がってくる。はるか昔にこの言葉を生み出した西洋人は、人間の常態(普通のあり方)は、まずはのんびりと余暇を楽しんでいることであり、仕事というのは、その余暇を見限って立ち上がり、あえて面倒なことを引き受けることだと観念していたというわけだ。仕事が終われば、彼はまたさっさと本来の余暇の世界に戻り、陽だまりに寝転んで安逸の時を過ごすであろう。
これは西洋人ばかりの発想ではない。実は、わが日本語にもおなじ構造の言葉がある。「営み」がそれである。「営み」を辞書で引いてみると「しごと、はたらき、勤め」という意味が記され、さらに「支度」とか「準備」という意味でも使われる。いずれにしても遊んでいるのではなく、何らかの仕事をするのが「営み」に違いない。
この言葉の作りはどうなっているのか。「いと」というのは実は古語では「ヒマ」のことである。「いとまを告げる」という語句は今でも使われるが、いとま=暇であり、暇を取って去っていくことを意味している。後半の「-なみ」の部分は「なし」という語に形容詞を名詞化する接辞「み」がついたもの(赤い+み=赤み)。つまり「いとなみ」とは「いと=暇がないこと」と解釈できる。これはネゴシエーションの組み立てと全く同じである。
古代人は余暇の中に生きていたのだ。余暇こそが人間本来のあり方であり、時々、余暇を捨てて交渉したり営業(イトナミ)したりして社会を回していく。営みがうまくいけば、再び本来の余暇世界に戻って平和と愉しみに生きる。現代人が忘れかかっているこのライフスタイルを、コロナ後の「新しい生活様式」として、今一度取り戻してみる価値があるのではないだろうか。
#08 小人閑居して不善をなす(2022年1月14日)
【つぶやき】
余暇についてよく言われる格言に
「小人閑居して不善をなす」というのがある。
ここで「小人」というのは古代中国のもの言いで、
教養ある「君子」に対して学問も礼儀も知らない庶民のこと。
つまり、教養人は別として、つまらない人間が暇を与えられると
ロクでもないことをしでかす、という意味である。
出典は儒教の経典の1つである「礼記(らいき)」の「大学」篇で、
日本でも昔からよく引用されてきた。
「小人閑居為不善」は、余暇を撲滅するスローガンとしてもてはやされた。
余暇なるものは、確かな見識のある人に与えられるならよろしいが、
無教養の庶民を暇にすると、酒を飲んだり博打をしたり、悪に走るのが関の山。
庶民には暇を与えず、できる限り働かせるのがいちばん、
それが本人のためにも世の中のためにもよろしいということだ。
【解説】
「小人閑居して不善をなす」という標語は、権力者や経営者が大好きな言葉で、労働者を長時間労働に追い立てるために活用された。「あんたたち教養のない輩(やから)は、暇になったらすることがなくて、朝から飲んだくれたり、女を買いに走ったり、挙句の果ては喧嘩、口論、殴り合い、身を持ち崩すことになりかねない。それよりは朝早くから夜遅くまでしっかり身体を使って働けば、健康にもいいし、悪事にも走らず、それでちゃんとお給金ももらえるのだから、こんないいことはない、さあ、働け働け」というわけだ。庶民も労働者も馬鹿にされたものである。
今では、これほど露骨に余暇否定を公言する人は少ないかもしれない。しかし、私たちの社会には、閑居=余暇は不善に流れやすいので、すべからくこれを「善用」するように努めなければならないという強固な信念が存在している。これを「余暇善用」のイデオロギー(根っこにある考え方)と呼ぶことができる。「余暇を上手に使いましょう」とか「余暇の活用法を教えます」という類のコマーシャルがあふれているし、そういう方向でのテレビ番組や雑誌の記事や書籍も毎日のように耳にするし目にも触れる。
だがしかし、ここで立ち止まって考えてみよう。本当に庶民は暇になると馬鹿なことばかりするだろうか。教養があろうとなかろうと、暇であることの価値というのは、人間ならば誰にも感じられ、味わえるものではないのか。暇があると不善をなすなんて決めつける前に、十分な暇をすべての人々に与えることが先決だ。子どもから高齢者まで自由に楽しく交流できる暇があれば、さまざまな「善きもの」が生まれてくるのではないか。「働き過ぎ」は自慢にならない。「ヒマ過ぎる」社会をみんなで作ってみようではないか。
余談を一つ。「小人閑居して不善を為す」という文言には、実は別の解釈がある。ここで「閑居」と言われているのは「暇に暮らす」ということではなくて、「一人で、孤立して暮らす」ということだというのだ。「閑」という文字は「静か」という意味だから、「閑居」を一人静かに暮らすと受け止めてもよい。すると、この句の意味は「教養のない人は一人暮らしをすると善くないことをしがちだ」ということになる。確かに他に誰も見ている人がいないと行儀は悪くなるし、ゴミはその辺に投げ捨てるし、勝手に人のものを盗るなんてこともしかねない。一人でも自立して毅然と生きられる哲人ならともかく、凡人は閑居などせずに、隣人たちと付き合いながら「雑居」した方がよろしい。――確かにこれなら分かる。閉じこもったり引きこもったりしないで、地域の絆を大切にして暮らしましょう。それには十分なる暇が要るのです。
#07 正月という聖なる時間(2022年1月4日)
【つぶやき】
大晦日の紅白歌合戦が終わり、除夜の鐘がボーンとなると
いよいよ新年が始まる。明けましておめでとう。
新年には誰もが改まった気持ちになって、
親子の間でも兄弟でも友人でも、居住まいを正して挨拶を交わす。
ちょっと気はずかしい感じもあるけれど、
お正月らしい、すがすがしい気分になれる。
元旦に外出するとすれば初詣ということになる。
普段はほとんど気にしたこともない近所の神社に行ってみると
驚くほどたくさんの人が来て神妙に並んで順番を待ち、お参りをする。
正月は日本人がいちばん「聖なるもの」に近づく時だ。
それにしても昔に比べると
正月が年とともに正月らしくなくなってきたと感じる。
それでいいのだろうか。
【解説】
余暇というものが持っている究極の意味は何だろうか。ドイツのカトリック哲学者ヨゼフ・ピーパーは、余暇の持ついちばん重要な機能は、礼拝=神と向き合う時間だと言っている。
たしかに、忙しく働いていたのでは、心静かに祈りを捧げることはできない。心のうちに沈潜して深く思いをはせるためには、生活の必要から離れた、自由で静かな時間を持たなくてはならない。
余暇の究極の意味は「聖なるもの」に触れることにあるのだ。
かつては洋の東西を問わず、宗教というものは生活の基盤であって、宗教無くして日々の営みはあり得なかった。キリスト教世界では、町や村の中心に教会があって、1週間は礼拝の日曜日とともに始まり、労働の平日を経て、再び神の日である日曜日に行きつく。
日曜日は晴れ着を着て家族そろって教会へ行き、神父(これはカトリックの用語で、新教では「牧師」と呼ぶ)の説教を聴いて神に祈りをささげる。日曜日に働くことはタブーであり、工場はもちろん商店もみな休みというのが当然だった。日曜日は聖なる余暇の日なのであった。
こうした宗教の優越性は、近代化とともに次第に崩れていく。日本社会は宗教の世俗化が世界でいちばん早く起こった。江戸期の長く続いた平穏な時代に、仏教は中世期に持っていた戦闘性を失い、僧侶は現世に対する緊張感を欠いて、妻帯もすれば酒も飲む、女遊びもするという体(てい)たらくとなる。
江戸期以来の仏教は日常生活には根付かず、ただ、人がこの世とおさらばする葬式の時だけに存在価値を発揮するだけになってしまった。キリスト教も20世紀後半からは全体に世俗化が進んで、今や日曜日に教会に行くのは年寄りばかりだという。独りイスラム教のみは、依然として宗教を生活の基盤に置いて、日に5回もメッカに向かって礼拝を怠らない生活を続けている。
宗教的な生活にほとんど縁のない我ら日本人が唯一「聖なるもの」に接近するのがお正月なのである。
晴れ着を着て夜の明けないうちから神社に詣で、柏手を打って神に祈りを捧げる。祈りの内容は金儲けや恋愛成就のような現世的なものかもしれないが、ともかく、人間を超える至高の存在に心を向けていることは確かである。正月こそはわれらの「聖なる余暇」なのである。
だが、今世紀になって正月が危なくなってきたように感じる。コンビニはとうの昔からそうだが、デパートもショッピングセンターも元旦から開店するようになった。晴れ着を着て歩く人もめっきり少なくなった。門松はそこここに立ってはいても、男の子が凧を揚げたり、振袖の女の子が羽根つきに興じたりする風景には、あんまりお目にかかれない。どこへ行っても「正月らしさ」は減退して、ただの休日になりかかっている。
正月の危機は余暇の危機でもある。余暇の核心にある「聖なる時間」を見失ってしまった日本人は、ただの俗物に成り下がって、人それぞれが「聖性」を内に秘めた個性的な存在であることを周囲に示すことができなくなっているのではなかろうか。
#06 クリスマスを国民の祝日に(2021年12月24日)
【つぶやき】
この季節、日本中の町はクリスマス・ムードにあふれている。
ビルの入り口にも、街角にも、学校や病院にも、
それどころかわが住むマンションのロビーにも
もみの木が飾られて赤や青のランプが明滅している。
商店街へ行くとジングルベルの響きが一日中流れているし、
ショッピングセンターには気の早いサンタクロースも登場、
親たちは子どもへのプレゼントをどうするかが悩みの種。
恋人たちもお相手を感激させる工夫に余念がない。
これほど浸透した国民的行事は他にない。
最近やたらに増えた国民の祝日―海の日だとか山の日だとか、
いったい何を祝っているのか、ただの休みに過ぎないのか、
そもそも休日であることさえ気づかぬ人もある。
それらに比べてクリスマスの存在価値は疑いようがない。
それでもクリスマスは国民の祝日ではない、
カレンダーを眺めればただの平日に過ぎない。
それはいったい何故だろう。
【解説】
クリスマスの浸透ぶりは確かに徹底している。この国の年中行事においてクリスマスは不可欠のアイテムになっていて、伝統的なひな祭りや七夕やお月見がだんだん廃れていくように見える中で、お正月を凌ぐほどの勢いを見せている。
それがキリスト教起源の祝祭であることを忘れさせるほどだ。
有名なジョークだが、クリスマスにキリスト教会の前を通った人が「おや、教会でもクリスマスをやってる」と感心したという話がある。
奇妙なことに、これほどクリスマス好きの日本人なのに、肝心のクリスチャンは圧倒的に少ない。カトリックとプロテスタントを合わせても100万人そこそこなのだ。人口の1%に届くかどうか。
その昔、フランシスコ・ザビエルの布教以来、信長や秀吉のころには総人口500万人のうち、50万を下らないキリシタンがいたというから、その頃の方がよほどキリスト教に近づいていた。
欧米ではキリスト教徒が大半なのは当然として、アジアでもクリスチャンは少なくない。お隣りの韓国には新旧キリスト教合わせて1,500万人(人口の約3割)、人民中国だとて1億のクリスチャンがいるという。
かつてスペインの植民地だったフィリピンなどは完全にカトリック国である。それに比べてわが日本は、明治以来、欧米人による熱心な布教活動があったにもかかわらず、クリスチャンは増えなかった。
ミッションスクールを卒業したような中上流の家庭には、そこそこ信徒が生まれたが、庶民はキリスト教を受け入れなかった。
戦前は明治以来、強力に推し進められた天皇教(崇拝)がキリスト教を阻止したし、戦後はアメリカ崇拝が浸透したものの、サンタクロースやジングルベルまでは普及しても信仰までには届かなかったということだろう。
クリスマスのどこが日本人の好みに合ったのだろうか。筆者は戦後日本の高度成長がもたらした消費生活の拡大を背景に、消費の場としての「家庭」を重んじ、わが家の平和と安泰を祝う日として、クリスマスが定着したのだと考える。
パパもママも子どもたちもそろって鶏のモモ肉に舌鼓を打ち、親たちは甘いワインに酔い、子どもたちは美味しいケーキをほおばってクリスマスソングを歌う―一夜明ければ枕元にはステキなプレゼントが置かれている。まことにメリー・クリスマス。
この日は国民の祝日に昇格させていいと思う。名称は「マイホームの日」というのがふさわしいだろう。
#05 レジャーとライセンスは同じ語源(2021年12月14日)
【つぶやき】
「レジャー」というのは英語から来た外来語、
英語の leisure のもとをたずねると、
フランス語の loisir(ロアジール)がなまったものだという。
(英語にはフランス語からたくさんの言葉が入っています)。
さらにその大本を調べてみるとラテン語の licere(リケーレ)に行きつく。
そしてリケーレとは「許す」という意味なのだ。
ところで「ライセンス」という言葉がある。
免許とか資格と許可証とかいう意味だ。
英語で書けば license
これも大本はラテン語の licere から来ている。
(綴りを見ればよく似ています)。
レジャーとライセンスは遠い昔は同じ言葉。
「余暇」と「資格」は親戚なのだ。
【解説】
言葉の由来というのは調べて見るとなかなか面白い。その語の持っている深い意味が明らかになったりもする。レジャーとライセンスが同源であることも、レジャーというものの性質をよく表している。
ライセンスがラテン語の「許す」から来ていることは誰でも納得できる。ライセンスとは、何かを行うことを公に許可されているということに他ならない。車を運転するには公安委員会の許可がいるし、専門職に就くには、その筋の公的機関が発行する免許証や資格証を持っていなければ雇ってもらえない。現代社会は多種多様なライセンスが絡み合うリケーレの世界にほかならない。
ライセンスは分かりやすいが、レジャーと許可というのは、どうつながって来るのか、すぐにはピンとこないかもしれない。これを理解するには、現代人は基本的にみな自由人だが、昔の人はそうではなかったという事情を考えてみる必要がある。
フランス革命が人々を縛り付けていた旧体制を倒して「人はみな自由だ!」と宣言するまでは、人は必ず誰か上の身分の人、主人や領主や王様に属していたのだ。王様だって「神」という至高の存在に縛られていたので、誰にも属さない風来坊は、まともな人間とはみなされていなかった。
レジャーというのは言うまでもなく「自由な時間」である。誰かに属している人間が自由なレジャーを得るためには、自分の主人からの「許可」が必要だった。レジャーとは「許された」自由時間であり、その点でまさしくライセンスに他ならなかった。
ご主人様から許されていただいた貴重な自由時間は、さぞありがたいものと感じられたであろう。現代人だとて、四六時中自由に生きているわけではなく、勤めもあればさまざまな社会的な義務もたくさんしょい込んでいる。そういうもろもろも拘束から解放されるのがレジャーの存在価値である。
多くの勤め人は週末に仕事を終えた時、得も言われぬ楽しい気分になって心が浮き立つものだが、あれこそまさしく「許されたレジャー」の味わいだといえよう。
その昔、丁稚奉公の小僧やお屋敷勤めの娘たちは、お正月とお盆、年に2回の「藪入り」にしか家に帰ることができなかった。彼らにとってその時の解放感はいかばかり大きかったことだろう。
当時、役人たちの休暇は「賜暇」と呼ばれていたが、これも役所から暇を賜る=いただくという感覚で、誰にとっても自由な余暇は貴重なプレゼントだったのである。
自由な現代人にとっての余暇は、自らに許可する自由時間である。
自分が許可する以上、誰に遠慮する必要はない。
もっと大胆に、一人一人の個性や趣味のままに自由にレジャーを楽しめる文化を育てていかなくてはならない。
#04「余暇」か「レジャー」か(2021年12月4日)
【つぶやき】
余暇って言うと「余った暇」、
何か消極的なイメージがある。
それなら「レジャー」という外来語を使った方がいいのでは。
レジャーと言えば、いかにも楽しい感じだし、
解放感もあるし、豪華な雰囲気もある。
近ごろは外来語があふれていて、意味不明な言葉も多いけれど、
レジャーなら若い人でもお年寄りでも、知らない人はないだろう。
レジャーの中身は人によっていろいろだろうけれど、
「余暇を楽しむ」という点ではブレはないと思う。
日本余暇会も「日本レジャー会」に看板を替えた方が
仲間が増えるのと違いますか。
【解説】
この日本で「レジャー」という言葉が登場したのは1960年代のはじめのころ、それもある服飾メ ーカーが出した新聞広告で「レジャー・ウエア」という用語が使われたのが最初だと言われている。
それまでの日本人の衣服は、普段着と晴れ着の2種類しかなかった。着古した日常の服装と、お出かけや 儀式のときの一張羅のどちらかだったのが、それに加えて、余暇を楽しむときのラフだが個性的な「遊び着」を着てみませんか、というキャンペーンが始まったのだ。
ちょうどそのころ、太平洋戦争の破壊からの復興がようやく終わり、経済の高度成長が始まろうとし ていた。経済が発展するためには消費の拡大が必須であり、そのためには誰もがいろんなモノを欲しが って買ってくれなくてはならない。
洗濯機、冷蔵庫、テレビの3種の神器がまずは売れたわけだが、日 常生活に密着したこれらの消費に加えて、その外側へ、楽しみを求めて出かけていく「レジャー」行動 が広がれば、景気はますますよくなるというわけだ。
当時の若者たちは(私もその一人だったのだが )、乏しい休日となけなしのお金をはたいて「レジャー」に出かけ、春秋の旅行、夏にはキャンプ、冬 にはスキーやスケート、街の中ではアメリカ伝来の新ゲーム「ボウリング」に熱中したものである。
こうして経済の高度成長は「レジャー・ブーム」を随伴しながら1960年代を驀進したのであった。
それ以来、レジャーという言葉は、外来語という感じがなくなるほど、日本の社会に定着したが、同時に「金のかかる遊び」という抜きがたい特性を持つことになってしまった。
本来、英語のLeisureには 、もっと落ち着いた、静かな余暇行動も含まれているのだが、日本語になったレジャーは、快楽志向で 消費的で集団的で騒々しい雰囲気が随伴している。
つまりは「余暇」という語の広がりが消費行動の方 面に限定されてしまったのが日本的なレジャーなのである。
というわけで、日本余暇会は「レジャー」を否定するわけではなく、もちろんレジャーも大好きな人 たちの集まりなのだが、「余暇」という用語の示す世界が静から動、精神と肉体、個人と集団...等の幅 の広い領域をカバーしていることに注目して、あえて「余暇」という言葉にこだわっている。
#03 余暇があなたの人生を決めた!?(2021年11月24日)
【つぶやき】
あなたは彼または彼女とデートしたことがあるだろう。
それをきっかけにしてあなた方は恋に落ち、
ついに結婚まで進んだ…そして今、幸せに生きている、
となるとそのデートがあなたの人生を決めたことになる。
ところで、デートと言うのは、ただ、日時を合わせることではない。
デートの土台は余暇にある―自由な時間があるからこそデートが出来るのだ。
二人に自由な余暇があり、たまたま日程の面でもうまく一致した時にデートは成立する。
デートは余暇を共にする「共余暇」の営みであり、
そこから人生の新たな局面がスタートする魔法の時間である。
【解説】
「デート」という言葉は、もとはと言えば「日付」だが、出会いの意味でこの語を使うときは、ただの日付ではなくて「特別の日付」、マークの付いた日時である。そしてそれは当然、束縛されていない自由な時間でなければならない。つまりは「デート=余暇」ということになる。
余暇がなければデートのしようがない。忙しく仕事に追われていては、デートもロクにできないのは当然だ。日曜日が社会全体に休みであるのは、この日が誰とでもデートのできる日として保障されていることを意味している。もっともキリスト教社会では、本来、日曜日はデートと言っても神さまとのデートであり、教会に詣でて神との対話を試みるはずの日であった。人間同士のデートには土曜日が一番うってつけだと思われる。
今、世界中で土曜日も休日であるのは常識で、先進国であろうが途上国であろうが、土曜日に働いている人は例外的だ。ところがわが日本では、土曜日が毎週休みというのは全勤労者の6割しかいない。ということは、私が休みでも、お相手が休みでない確率が半分近くあるということになる。それなら平日の夜にデートしなさいだって?
これがまた定時に帰れる人は少数派で、皆さん残業に勤しんで、帰る時間がまちまちだ。これでは落ちついてデートは出来ない、待ちぼうけを食わされることも多い。
こんな状況では恋人探しも難航するはずで、結婚年齢が年々高くなり、生まれる子どもの数がどんどん少なくなるのは、余暇貧乏で、デートの機会が少ないことが大きな原因だと言っていい。少子化を押しとどめたいなら、政府はすべからく余暇の拡大に努めることだ。
余暇の価値は、「自由な選択」を可能にするところにある。余暇は私たち決まりきった生活から抜け出す新たなチャンスを与えてくれる。自由な時間だからこそ、人と人との自由な結びつきが可能になる。余暇をたくさん持つ人は、さまざまな人との出会いの機会をたくさん持つということになる。そこから新たな人生が開ける可能性は大きい。
#02 余暇と遊びはどう違う?(2021年11月14日)
【つぶやき】
余暇ってつまりは遊びでしょ。
どちらも自由で楽しい体験ということ。
でも、余暇と言ったり遊びと言ったり
どうして2つの言葉があるんだろう
どこに違いがあるのだろう。
遊びと言えば子どものすること、
働く大人は遊んじゃおられんから余暇なのかな。
あるいは余暇は余暇時間、そこで行われるのが遊び活動、
つまりは余暇が容れ物で、盛られた中身が遊びなんだ。
余暇と遊びはワンセット、すてきなカップルというべきか。
【解説】
この問題を考えるためには、「外延」と「内包」という一組の概念と使うとわかりやすい。哲学の用語としては、内包(intension)が、ある概念が持っている共通の性格を指すのに対し、外延(extension)は、その概念に含まれるものにはどんなものがあるかを示す役割をもっている。
例えば「猫」という概念の内包は、ニャーニャー鳴いてネズミを追いかける毛におおわれた生き物ということだし、猫の外延は、三毛猫から黒猫からヤマネコ、どら猫、ペルシャ猫…という猫族の広がりを意味している。1つの概念は「内包」としての独自の意味を持ちつつ、その適用範囲を「外延」として定めていると言ってもいい。
この論理をそのまま適応すると、実のところ「余暇」にも「遊び」にも内包もあれば外延もあることになる。だが、ここではちょっと使い方を変えて、余暇と遊びの核心にある、いちばん大切な要素―それは自由とか快楽とかいうもので人間がいきいき生きて行く上で不可欠の価値―を踏まえて、余暇がその外延を示し、遊びがその内包を具体的に表していると考えてみよう。
あっさり言えば、余暇というお皿に遊びという果物を盛るというイメージで考えてもらえるといい。小さなお皿にはキンカンやサクランボぐらいしか載せられないが、お皿が大きければ、リンゴでもミカンでも果てはバナナでもメロンでもさまざまな果物を盛ることができる。外延が広がれば内包も豊かになる道理である。
この比喩で主張したいのは、われわれ日本人の余暇という入れ物の小ささである。働く人の余暇時間は先進国で最少、子どもたちだって、大人たちの働き主義の影響をモロに受けて、自由な時間を制限されて、宿題だの塾だの部活だの(部活って自由じゃないよね)に追い立てられている。
その分、余暇に盛られるべき遊びは貧弱になり、部屋の片隅でスマホをいじって気晴らしをするぐらいしかできていない。 豊かな遊びのためにもっと余暇を!というのが日本余暇会の主張である。
#01「余暇」って何だ?(2021年11月4日)
【つぶやき】
余暇とは「余った暇」と思われがち。
確かにそうだが、問題は「余り」の意味。
多くの人は、「余り=余計」と思っている。
つまり、余って要らない暇。
価値のないものだと思っている。
しかし、そうではない!
この「余」は「余裕」の余。
時間のゆとりであり、
豊かさを表す価値ある「余」である。
余暇は「余った暇」ではなく、
「余裕の暇」と考えよう!
【解説】
われわれ日本人は「余暇」を大事にしていない。余暇は仕事が忙しくないときに、たまたま空いてしまった余計な時間、あれば儲けものだが、なければないで仕方がない、ぐらいにしか思っていない。
言い換えると、余暇ははじめから目標にはされていない。仕事の動向によってたまたま得られる「結果論」としての「余り物」に過ぎないのだ。
しかし、よく考えてみてほしい。そもそも仕事は何のためにするのか。仕事によって暮らしを支え、余裕をもって、ゆとりある生活を楽しむために働くのではないのか。働く先にある、ゆったりした余裕の時間を獲得することが働くことの意味ではないのか。
仕事のために余暇があるのではなく、余暇のために仕事があるのだ。目標としての余暇=余裕の余暇こそが私たちが求めるべき本当の余暇の姿だ。
かつて、暮らし全体が貧しく、長時間労働が当たり前だったころは、余暇なんてほとんど取れなかった。少しでも余暇という隙間があれば、身体を休めて疲れをとるための時間だった。
欧米では19世紀後半になって、労働時間を短縮して1日8時間に制限し、睡眠や食事に8時間を使い、あとの8時間は、生活をエンジョイする自由な時間=余暇とするという価値観が定着していった。
1919年にILO(国際労働機関)が設立されて、その第1号条約が1日8時間制を定めて以来、余暇は生活の大切な目標になっていった。欧米では週休2日制が広がり、長期のバカンスも定着していく。
目標としての「余裕の余暇」が生活に根付いていくのだ。
残念ながらわが日本は、余暇の量も余暇の質もたいへん乏しい。余暇は相変わらず余計者で、余暇を返上して残業も厭わず、過労で死んだり、鬱になって自殺する勤労者が後を絶たない。
そろそろ発想を変えよう。余暇を余計者から救い出し、脇役ではなくて主役に据えた「新しい生活様式」を作り出そう。コロナ禍が私たちの働き方に大きな疑問を突き付けてくれた。
いまこそ余暇を「余った暇」から「余らせて有効に使う暇」へ転換させるべき時である。